2021年03月23日(火) |
「他山の石」の意味について |
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「他山の石」という言葉の出典は中国の「詩経」である。その中に「他山の石、以て玉を攻むべし」とある。これは「よその山にある粗悪な石ころでも自分の持つ宝玉を磨くのには役立つ」というという意味で、つまらない他人の言行であっても自分自身を磨くことの助けとなるということとして使われる。極端に言えば、自分とは一見無関係に見えるどんなくだらないつまらないことでもそれによって自分自身を成長させる糧となるということである。
要するに「他山の石」とはつまらない石ころのたとえなのだ。これをたとえば「イチロー選手のプレーを他山の石として精進していきたいと思います。」などと言うのは間違った用法なのである。「先生の立派な教えを他山の石として一層勉学に励みます」などと目上の人に向かって言えば、相手を舐めた無礼な発言になってしまうのである。また自分のことにも使えない。「今回の受験の失敗を他山の石として、一年間予備校で励みたいと思います。」というのも間違いである。
そういう「他山の石」ということばを、自民党の二階俊博幹事長が使ったのである。公職選挙法違反の罪に問われた元法務大臣の河井克行被告(二階派の議員)が議員辞職した一件に関して、「党としても、他山の石として、しっかり対応していかなければ」と発言したのである。これがクズ集団の維新の会や国民民主党の議員の起こした事件なら「他山の石」としてたとえるのは許される。しかし、自党の議員の不祥事で、しかも二階派という身内の不祥事である。それを「他山の石」とたとえるのはあまりにも無責任というか馬鹿というか、開いた口が塞がらないのである。「それあんたのとこの事件やろ」と思わず突っ込みたくなるのである。それは「他山の石」ではなくて「自山の屑」である。
まあ自民党の議員が馬鹿が多いことは、二世議員が多いことや、利権のために祭り上げられた軽い神輿でしかない木偶の坊が多いせいなのだが、それにしてもこの用法はひどい。もう一回中学や高校の国語をやり直してもらいたいところだが、二階俊博の場合はかなり耄碌が進んでるのだろう。ただの頭のイカれた老害でしかないのである。
どうして日本の政治家というのはここまで劣化してしまったのだろうか。どうして彼らには国民のために働くという意識がないのだろうか。この日本のどこに「無私」のこころで民に奉仕したいという立派な志の政治家がいるのだろうか。
オレは既存の政党にはほとんど期待していない。枝野はとても宰相の器であるとは言えない。そうなるといったい誰が・・・ということになるのである。
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