国公立大学の後期の試験の合格発表もほぼ終了し、受験生たちは大学生としての新生活をスタートするか、捲土重来を期して来年の挑戦を目指すかを決断する時期である。オレが担任するクラスでも合格した大学に進学せずに浪人する者もいるし、あるいは受験校すべての不合格通知を受け取って、浪人を余儀なくされた者もいる。
複数の合格通知の中で「どっちにしようか」と悩むことができるのはぜいたくな悩みであるが、私大同士なら偏差値の序列で「好きな学部」よりもも「入学試験偏差値の高い学部」を選ぶのが受験生の常である。たとえば本人は経済学部志望であっても、合格したのが関西大学(経済)と同志社(法)なら迷わず同志社を選ぶのがなぜか普通の受験生なのである。ただ、そういう例は比較的決めやすい。
困るのは比較の基準がない場合である。たとえば和歌山大学の経済学部と関西大学の経済学部の両方に合格している場合にどちらを取るかである。和歌山がよほど田舎と思われてるのか、そういう場合は和歌山よりも関西大学を選ぶことが普通である。地方の国公立大学の文系は本当に不人気である。
家を離れることのメリットは何だろうか。地方の大学で新生活を始める場合、一人暮らしをしないといけないわけだが、そこには限りない自由が存在する。生活のすべてを自分で決定できるわけだ。親の目の届かないところで部屋に異性を連れ込もうと同棲しようと全く自由なのである。これは大きなメリットである。高校生カップルにとってもっとも困ることは「自由にいちゃつく場所がない」ということである。一人暮らしをすればそれはたちまち解消するのだ。ただ、そういう議論は人口のかなりの部分を占める「非モテ」の人たちにとっては全く関係がない。
自立できていない若者にとって、一人暮らしをスタートするハードルはとても高い。まず「一人では朝起きられない」という若者が多数いるのである。起立性調節障害の若者は劇的に増えた。これは深夜までゲームしてるということも関係するのかも知れないが、昔は「朝起きられないヘタレ」と単に周囲思われていた人の中のかなりの部分が「起立性調節障害」という健康上の問題であることがわかってきたのである。そういう若者が一人暮らしを始めると大学の授業に全く出られないということが起きる。当然のことだが留年する。オレが入学した頃の京都大学にもそういう若者は存在したので、今はもっと増えているだろう。
都会の私大か、田舎の国公立大か、これは究極の選択である。それによって人生は劇的に変わってしまうのである。オレは高校1年の頃、山が好きなので信州大の医学部に行きたいなどと漠然と考えていたが、もしもそのまま志望が変わらなったら全く違う人生になっていたのである。そしてオレが今のオレでなかったら、オレが深く関わりを持った多くの方の人生も変わる。オレがディベートなんてヤクザな道に引き入れたために、人生が変わってしまった若者が大勢いるのである。もしかしたらまっとうに生きていたかも知れない若者の人生を劇的に変えてしまったことの責任をどうやってとればいいのか。
いやいや、ディベートは決してヤクザな道ではなくてすばらしい世界ですと教え子たちが思ってくれていればいいのだが、そう言い切れる自信はない。
都会か、田舎か、その究極の選択に答はないのである。
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