2021年01月12日(火) |
タトゥーと入れ墨 |
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大みそかのボクシングの試合で井岡一翔のタトゥーが露わになったことが問題になっている。ボクシングの興行というのは昔から暴力団と関係が深く、暴力団はボクサー崩れを用心棒として雇い入れたりしたのである意味引退後の再就職先でもあったのである。今から30年くらい前ならリングサイドは暴力団関係者で埋まっていたものである。
日本ボクシングコミッション(JBC)が暴力団排除という方針を打ち出した時、選手に対して入れ墨(タトゥー)の禁止というルールを課したのはある意味当然のことだと言える。今でも「入れ墨」=「ヤクザ」というのが世間の感覚であり、ボクシング選手に対して入れ墨禁止とすることは試合がテレビ中継されることを前提にすれば納得できるルールである。海外では「タトゥー」=「ファッション」だが、日本では「入れ墨」=「ヤクザ」であるからだ。温泉施設の多くがタトゥー禁止にしてるのも暴力団排除という流れである。たとえ有名作家の吉本ばななであってもタトゥーをしていれば温泉施設には入れなかったのである。
井岡一翔は「タトゥー禁止」というルールは理解していた。それでタトゥーの上にすぐに汗で流れるように薄くファンデーションを塗っていたのである。試合が進むにつれてどんどんそれは露わになった。
さて、ここで世間の反応を見ると「タトゥー禁止というルールは世界標準から外れている」という形で井岡選手を擁護しつつルールが間違ってるという意見が目立つ。オレはそれは違うと思うのである。ルールがおかしいと主張するのなら、先にルールを守ってからそのうえで堂々と主張するべきである。自分がルール違反をしてから指摘されると「ルールがおかしい」と主張するのはただの我儘である。世間によくいる「そんなルール知らなかった」というDQNと同じ程度に情けない。
ファッションとしてワンポイントのタトゥーを入れることが海外では普通だという。それを日本に持ち込もうとすることが「グローバル化」なんだろうか。オレはそんな未開人の風習は別に持ち込まなくてもいいと思うし、そんなものでしか自己を表現できないヤツというのはどうせ中味のない人間だと思うのでタトゥーに価値は感じない。谷崎潤一郎の小説「刺青」に感じられるのは背徳のエロチシズムであり、それが非日常の耽美的な世界だから文学としてとらえられるのである。
そして井岡選手が腕に入れていた堂々たる絵柄は、ファッション性の高い「タトゥー」ではなくて「入れ墨」である。その見事な彫り物は反社会勢力の方々の入れる「倶利伽羅紋々」の世界につながるものであり、見ていてかなりの不快感をオレは覚えたのである。こんなのを入れている人とは実生活で関わりたくない。
オレはDQNが嫌いだ。北九州市の成人式(通称DQN式)に集まる派手な衣装のDQNたちと仲良くしたくはないし、向こうもきっとオレのような昭和のオッサンは嫌いだろう。「入れ墨」がカッコいいというのはそのDQN文化の特徴である。改造車に竹やりマフラーをつけたり、昔はやったシャコタン(北海道の積丹半島のことではない)とか、デコトラを電飾まみれにするとか、それがDQN文化(ヤンキー文化)なのだ。
ヤンキー文化というのははぐれ者の文化である。戦国時代で言う「傾奇者」の系譜の延長線上に存在するのである。自らがアウトローであることを宣言するためにそれらしい服装、髪型、化粧を身に着けるのだ。タトゥーもその一つである。
中学生高校生は髪を染めたがる。これをファッションだと思って肯定する人も多いわけだが、彼ら彼女らの心の中にあるのはその行為が一つの反抗であるということである。進学校に於いての染毛は「勉強しない宣言」の場合が多い。それまでのまじめに勉強してきた自分をかなぐり捨てて、「これからは自由に生きる」という宣言を形であらわした行為が染毛なのである。
オレはボクシングに「タトゥー禁止」のルールがあってもいいと思う。もしもそれをなし崩しに許せば、ボクシングというスポーツのさらなるDQN化を進めるだけである。もっともボクシングだけではなく、スノボとかスケボーとかのように世間からDQNスポーツと思われてるものがたくさんある。その有名選手が大麻で捕まったりすると多くの人は「やっぱりな」と思うのである。
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