2021年01月13日(水) |
文学の教養について |
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オレはクルマを運転中によく古い歌を聴く。森田童子の「孤立無援の歌」という曲の歌詞には「孤立無援の思想」(高橋和巳)が出てくる。昭和の時代に京都大学で学生生活を送った私にとって、高橋和巳を読んでいることは至極当然のことであった。今の若者で高橋和巳を読むものなどほとんどいないだろう。
渡辺美里の「BOYS CRIED ~ あの時からかもしれない」という曲の歌詞には「The Catcher in the Rye」というJ.D.サリンジャーの本の題名が出てくる。高校生の頃に英語教師から「きみはこの本の主人公みたいだね」と言われて読んだことを思い出す。そうした一種の「本歌取り」のような技法は、「歌詞」という限られた文字数の中で多くの情報やイメージを詰め込むために有効だ。もちろんそれは本の題名ではなくて、特定のブランド名や固有名詞であってもいい。山口百恵が歌詞の中で「真っ赤なポルシェ」と歌ったことも、そういうクルマに乗ってるのはどんな人間なのかというイメージがおそらくは聴き手に共有されているから意味が通じるのである。
そうした「本歌取り」を最近の歌が使わなくなったのは、おそらくは意味が通じないということなんだろう。映画「天気の子」の中で主人公が「The Catcher in the Rye」のペーパーバックを持ってるシーンがあるが、あの映画の観客でその意味に気が付いたのはオレ以外にはごくわずかしかいなかったと思われる。
本を全く読まないような教養のない人間とはオレは付き合いたくない。逆によく本を読んでいる人とはいろんな話がしたくなる。その人の書棚にどんな本が並んでいるかということはその人の性格や嗜好を理解するための参考になる。これはとても大切なことである。
もちろん紙の本でなくてもタブレットの画面でも本は読める。しかし、書物として物理的に存在することとは意味が違う。オレの家には大量の本があるが、おそらくオレが死んだあとはこの本の多くは廃棄されてしまうのだろう。さまざまな文学全集や古典文学大系などというものは検索の便利さを考えればデジタルデータの方がはるかに使いやすいわけで、もはや紙の本の出番はない。遺品整理の業者はその本の多さに文句を言い、高価な費用を請求するだろう。
オレの二人の息子たちはどちらも学者になるどころか本もほとんど読まない。オレの父親は読書好きでオレにもその血は流れていたが、三代続くことにはならなかったのである。そしていずれ日本人の生活習慣から「読書」という生活様式がどんどん失われていくのだろう。今は維新の会のような「反知性主義」「学問・教養の軽視」ということを党是とするような政党が大阪を支配しているわけだが、このまま彼らが権力を握る限り大阪の未来はDQNの天下となってしまうのである。
滅びゆく旧時代の人間としてオレはこのまま年を取っていく。最近物忘れもひどくなってきて、もしかしたら認知症の入り口にすでに立っているのかも知れない。今のうちに思ってることや考えてることをどんどん書き残して、デジタル遺品としてWEB上に記録していくしかないのだろうか。noteのサービスはいつまで続いてくれるのだろうか。
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