2020年11月04日(水) |
運転してはいけない人 |
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2015年5月、浜松市内のスクランブル交差点に信号無死のクルマが突っ込んで5人がクルマにはねられ、そのうちの1人が亡くなったという事故が起きた。クルマを運転していた中国人女性が統合失調症だったということで裁判員裁判だった一審の有罪が控訴審で逆転無罪となり、遺族は憤懣やるかたなくそれではとその女性の夫を訴えていた事件である。
静岡地検浜松支部は、女性の夫である男性を嫌疑不十分で不起訴処分とした。これで誰も罰を受けなかったということになる。
統合失調症による妄想に支配された状態でクルマを運転されることは歩行者から見れば凶器が暴走しているとしか思えない。一審の起訴理由が「殺人容疑」であったこともうなづける。裁判員裁判でも市民の常識的な感覚で「それは有罪だ」「それはまぎれもなく殺人」ということになった。ところが高裁ではプロの裁判官が市民の下した判決を否定して、「統合失調症で心神喪失」ということで無罪判決を下したのである。
もしも統合失調症の方がいくら殺人をしても罰を受けないということならば、統合失調症の方の人権を全く認めていないのと同じである。その人権を認めるからこそ同じように罰を受けなければならないのだ。このような間違った判決が後に残す弊害は統合失調症の方々へのいわれなき差別である。
人口の中の一定割合は統合失調症になるらしい。だからこれは誰もがかかる可能性のある病として受け止めるべきなのだ。そして罪を犯した時は罰も一般の人と同様に与えるべきである。そうでないとあまりにも理不尽である。
この世には車を運転してはいけない人がいる。それはたとえばアル中の人であったり、極端に運転の下手な方だったりするのだが、その中には統合失調症や麻薬中毒も含めるべきであるとオレは思っている。てんかんの発作でクルマを暴走させるという事故も数年に一度は起きる。そうした時に「責任能力がない」と無罪判決が出ることは正しいのだろうか。少なくとも事故で人が死んだときに「責任がない」ということはありえないのである。大規模な鉄道事故で鉄道会社に責任がある場合は社長や会長が刑務所に入れられるべきだと思うし、東京電力の勝俣会長は福島原発のあの回復不能な事故の責任を負って死刑になるべきだったと思うのである。
責任を取れる人だから名誉ある地位につけるのだ。責任を取れないならその地位にはふさわしくない。全責任を取ると口では言いながら何の責任も取らない安倍晋三のようなクソ野郎は総理をやるべきではなかったし、頭が悪すぎて質問されてることの意味もわからない菅義偉のようなポンコツにも首相はやらすべきではない。
オレはポンコツな人間が嫌いだ。頭が悪くしかも仕事もできない。そのうえ文句ばかり言ってくる。そういうポンコツな人間はそれなりに自分のポンコツぶりを理解して控えめに生きるべきなのに、よりによって首相にしてしまったのが日本の悲劇だ。
今回の浜松のこの裁判、実は「特定の人々はなにごとにも責任を問われない」という今の日本の大きな流れの中の一事象なのである。日本は無責任大国への道をひた走っている。何も説明責任を果たさない政治家に対して、国民はきちんと「NO!」と言わないといけない。人を殺してしまった以上、いかなる理由があっても刑務所に入らなければならない。選挙違反をしたら議員をやめなければならない。任命拒否をしたらその理由を説明しないといけない。
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