2020年10月10日(土) |
上級国民の罪と罰 |
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クルマを暴走させても上級国民なら逮捕もされないし、報道時にも容疑者扱いではなく敬称をつけて記事になるということで話題になった上級国民の飯塚幸三だが、やっとその裁判が行われ、堂々と飯塚幸三は無罪を主張した。クルマの故障で暴走したのであり、自分には罪はないということで事故の原因について争う姿勢を見せたのである。検察側はクルマの側に異常がなかったというデータを提示して起訴に持ち込んでいるわけで、事実関係が争われることになり裁判は長期化するのが必至である。そうなると高齢の飯塚幸三の場合たとえ有罪になっても「収監に耐えられない」ということにもなりかねず、結局この男は何の罰も受けないで終わるような気がするのである。
故意に人を殺したものは死刑、そしてたとえ過失であっても人を死なせてしまったらそれ相応の罰を受けるべきだというのがオレの考え方であり、おそらく多くの日本人の考え方もそれに近いであろう。人を殺しても「無罪」を主張することに関しては違和感がある。難しい手術の結果として人を死なせてしまった医療訴訟の場合などは無罪にしてもいいケースがあると思うが、交通事故の場合は車両の故障や欠陥から起きる事故はまれでありそのほとんどはドライバーの過失によって起きる。
高齢者に多いアクセルの踏み間違いは実は人身事故として報道されるのはごく一部で、日常的に我々のまわりで多数起きている。中学の同窓会の時に私と同じ年代の女性たちが踏み間違って車を大破させた経験を話されていた。普通に起きている事故であり、その結果として人を死なせれば「過失致死」としてその罰を受けるのが相当だ。ところが「無罪」を主張した時点でオレはこの飯塚幸三という人間はクズだと思うのである。自分のせいで人が死んだということをどのように受け止めているのか。自分のような立派な人間は人を死なせても罰を受けなくてもいいと思いあがってるのだろうか。上級国民故のおごりのようなものを感じるのだ。そういう気持ちでいる反省しないジジイはむしろ罰を重くてしていますぐ死刑にすべきであるとまでオレは思うのだ。自分の犯した罪と向き合えない人間は生きてる価値がない。
オレはゴールド免許だ。クルマを運転していていつも心掛けることは超安全運転である。一時停止はきちんと止まるし、信号では無法者の歩行者や自転車の存在を常に想定して徐行する。公道を走行しているときは運転の下手な他のドライバーに配慮しつついつも周囲を警戒しつつ走る。今は自動停止などのサポカー機能を搭載したAT車を運転しているが、昨年まではずっとMT車を運転していた。
そんなオレでも交通事故を起こす可能性が全くゼロというわけではないので、きちんと任意保険に加入しているし、もしも人を死なせたり傷つけてしまったりした場合はきちんと罰を受けようと思っている。それがドライバーたるものの務めであり、人間の義務だと思うからである。
どんなに立派な業績があっても、どんなにすぐれた人であっても、その最後に人間の道に外れた行為をすれば評価は最低になる。飯塚幸三の現在の状況がまさにそうである。晩節を汚すというのはこのような事例を言うのである。
「罪と罰」という概念が今の日本では軽視され、忘れられている気がする。たとえ罪を犯しても首相の側近なら許され、公文書を改ざんして本来なら懲戒免職に相当する行為であってもなぜか栄転するのが今の日本である。今最も問題にすべきこと、政治が取り戻さないといけないことは正義である。
残念ながら「正義を取り戻す」「悪い人は全員刑務所へ」ということを国民にアピールする政党は一つもない。「大日本正義団」などというヤバそうな名称の政党が立ち上がったところで、世間では右翼団体としか認識されないだろう。正義を失って嘘がまかり通る日本の政治状況が本当にオレは嘆かわしいのである。
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