2020年07月01日(水) |
伸びる生徒と伸びない生徒 |
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教員の欠勤や出張で空いた授業の自習監督に入ることがある。さすがに高校3年にもなると自習時間に遊んでる生徒はいなくてみんなそれぞれに勉強しているわけだが、その勉強の中味を観察してるとこれから伸びる生徒とそうでない生徒というのははっきりとわかる。
まずオレが注目するのは、「手」が動いてるか動いていないかである。ノートやプリントに向かって数式を書いたり、英文を読みながら線を引いたり印をつけたりして「考えながら問題を解く」という学習ができてる生徒は必ず「手」が動いている。そういう生徒はたいてい中身のある勉強ができてるし、集中もできている。
手が動いてない生徒は何をしているかというと、単語集を眺めていたり、図表を眺めていたり、資料集を眺めていたりしているのである。ぼんやりと眺めていてそれが頭に入るわけでもないし、また教室という他の生徒のいる場所での自習ということで音読もできないわけで、眺めているという勉強法には限界がある。そんなことは通学の電車や休み時間の10分でも可能であるし、そもそも50分眺めていたところでそれだけの時間見たことが頭に入るわけでもない。50分眺めても5分眺めても、脳に定着する情報量はさして変わらない。そして覚える工夫がないから時間が経過するとすぐに忘れてしまうのである。
その「ぼんやりと参考書を眺めて過ごす生徒」たちは、自分の勉強法の問題点に気づいてるかというとそうではない。彼らの最大の誤解は「50分も単語集を見ていた。オレはすごく勉強した」とおめでたいことを考えてることである。その効果が5分間眺めていた生徒と大差ないにも関わらずそんな誤解をしているのだ。
学齢期に「考えて理解する」という勉強法を身に付けなかった人は、生涯その勉強法にたどりつけない。「瞬間的に記憶してすぐ忘れる」という勉強しかできないのである。それでも本人は「すごく勉強した」と勘違いしているから始末が悪い。
ではこの「ぼんやりと眺めている」という無意味な行動のもたらす効果は何だろうか。それは勉強のアリバイ作りである。たとえ50分間ぼんやりと参考書を眺めていただけであっても、本人は「50分勉強した」と思ってるのである。教室に「5時間勉強しよう」などというスローガンを掲げていたり、親から「最低3時間は勉強しなさい」と言われていて、その3時間や5時間を「参考書を眺めて過ごす」という無意味な過ごし方をしていても、本人は「オレはちゃんと決められた時間勉強している」と思ってるわけだ。本人は精神的には満足してるのである。それでも成績が上がらない理由はたいてい「教師が悪い」である。世の中には神のようなカリスマ教師がいて、ただその講義を聴いているだけでどんどん理解が進み、成績アップすると思ってるのである。そんなことはない。オレのようなある意味「神」のレベルに到達したプロ教師でもそれは無理だ。
「いくら勉強しても成績が上がらないんですよ」と語る生徒の多くは、「ただ参考書を長時間眺めている」という形の「アリバイ作り」の勉強しかできていない。それはそもそも「勉強」ではないということに気づいていないのである。参考書を眺めていることで効果が上がるのは、オレのように過去に高いレベルに一度到達し、それから数十年の時を経て改めて昔勉強したことを確認するという形で参考書を読む場合である。それはすでに理解した知識の「再確認」作業である。
正しい学び方に到達できていない生徒を正しい学び方に導くことは可能だろうか。それはたいてい無理である。なぜならすでに間違ったやり方で5年も6年も過ごしているわけで、もはやもとにはもどれないのである。中学入試を突破した直後の所からやり直すしかないわけだ。5年も6年も間違っていたことを改善するには、やはり2年くらいは絶対に必要で、指導する教員も指導を受ける生徒もほとんど挫折する。
では正しい学び方を身に付けられなかった生徒はどうなるのか。たいて浪人して予備校に進むわけだが、そこで時折「正しい学び方」を身に付けて生まれ変わる生徒がいる。3割くらいだろうか。たぶんその理由は、予備校のテキストの多くが予習してしっかり学ばないと意味がないようなものであるからだとオレは思ってる、学ぶ前に準備をするということは受け身の学習態度では不可能である。
ただ、せっかく浪人しても正しい学び方を身に付けらられない生徒はいる。幸いなことにそういう浪人生でも合格できる大学がちゃんと用意されているわけで、Fランク大学にもそれなりの存在意義はあるのだ。「学ぶ」というスタイルを身に付けないままそういう大学を卒業した学生は、その後どんな人生を送るのか。わが子にどんな教えを与えるのか。オレには想像もつかないのである。
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