2020年06月05日(金) |
正確に文書を作成すること |
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官僚に求められる能力は「正確に文書を作成する能力」だと言われる。さしずめ今なら「安倍晋三のウソ答弁と矛盾や齟齬のない文書を巧妙に作成できる能力」ということになるだろうか。じっくり校正して時間をかけてチェックして作ることになる。
公立高校で勤務していた時、同僚から「きみは能吏タイプだね」と評価されたことがあった。指導要録や調査書、そして保護者に配布するさまざまなプリントや校務分掌の中で自分の作成すべき文書などを正確に作成する能力が評価されたわけである。オレはどちらかというと自分がルーズでいいかげんな性格だと思っていたので、何度も校正してチェックし、そのうえで丁寧に作ることを心掛けていただけなのだが。今の勤務校でも生徒を引率しての研修旅行などの際に、いつも自分が持ち歩いてるパソコンで必要な文書を即座に作成し、そして印刷、配布しないといけないような局面が何度もあった。時代劇の世界なら「右筆」というお役目をいただいていたのだろう。
もっともオレはどうしようもない悪筆なので、手書き文字を必要としないという大前提が必要なのだが。書道家はすごいなあといつも尊敬してしまうのである。手書きしないとどんどん文字は下手になる。文書が電子化されていく中で、学校ではまだ電子化されていない部分が若干残るのだが、早く完全に手書き文字を不要とする世界が来てほしいと悪筆のオレは願うのである。
「記入漏れやミス」は、生徒が必ずやらかすことである。模擬試験の時のマークシートには必ず受験番号の記入漏れの生徒がいるし、大学入試センター試験の志願書で生徒のミスを発見したら、きちんと書き直しさせることになる。そういう注意力の不足はどうして起きるのだろうか。たぶん本番の試験でもこのようなミスは頻発していて、その結果志望校に合格できない生徒もいるのだろう。それはやはり運命なのだろうか。
大学入試センター試験のマークシートのうち、受験番号の記入漏れが1%くらいあるという。以前は前後の番号から誰のものであるかなどと確認作業などしていたらしいが、今は一切そういうことはなく無効扱いにするそうである。そういうミスをする人の中にはADHD(注意欠陥多動性障害)である場合もあって、必ずしも本人の責ではないというか、少しかわいそうな側面もあるわけで社会はどのように許容していくのか線引きが難しいのである。注意力の不足が甚だしい場合は支援も必要である。交通事故の中にはこのような人もかなり含まれるのではないかとオレは思ってるが、その過失が人を殺める可能性をもたらすならば、運転免許交付に関しては規制が必要かも知れない。
試験の答案に名前を記入し忘れる生徒は、数クラスの中に必ず一人はいる。試験終了時に監督の教員が一言「名前や受験番号を確かめて」と言ってくれればいいのだが、それでも忘れる生徒は忘れるだろう。入学試験の時に答案に受験番号を未記入の生徒がいて、監督時に机間巡視してそれに気づいたのでそっと答案の番号のところを指さしたことがある。人はミスをなくすことはできない。さまざまなミスを前提にそれが起きた場合の混乱を防ぐ工夫をしていかないといけない。
ただ、区別しないといけないのは「ミス」と「悪意」は違うことである。安倍晋三の走狗となってる官僚たちが文書を残さないことは「ミス」ではなくて「悪意の忖度」である。それは安倍晋三への忠誠ではあるが、国民への裏切りだ。
政治家が国民目線ではなく、献金をくれる大企業や、竹中平蔵のような政商に操られていることが我が国の不幸である。10兆円という予備費はいったい誰のフトコロに入るのだろうか。もしもオレにくれたらいろんな政策が打ち出せるのになあと思うのである。
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