関西人のオレは当然のことながら納豆を食べない。そしてこれは関西人であることとは無関係だが、子どもの頃からの食習慣の関係でキムチも食わない。そんなオレの家に住むオレの妻は、なぜか納豆もキムチもよく食べるのである。我が家の二人の息子は、長男はキムチは食べるが納豆は食べない。次男は納豆もキムチも大好きである。そして母は私と同じく納豆もキムチも食べない。
冷蔵庫には妻が購入した納豆とキムチが大量に備蓄されている。それらを食べないオレからすれば「なんでこんなものがスペースをとってるのか?」と実に腹立たしいのである。しかし、妻にすればその状況が日常なのだろう。
オレはあるとき、衝撃的な光景に出くわした。それはどういうことかというと、その納豆とキムチという二大食品を、なんと妻は混ぜていたのである。混ぜて混ぜて、ネバネバの謎の食品を作り上げていて、それをごはんにかけていたのだ。なんということだ。
ごはんというおいしいものに、味付けのりやのりたま、生卵などをかけておいしくいただくのならよくわかるし、私も大好きである。しかし、なぜそこに納豆キムチなのか。納豆なんて豆が腐ったものじゃないか。農家の方が丹精込めて作った大切なお米の上に、腐った豆をかけるなんてひどいじゃないか。オレにはそんなひどいことはとうていできないのである。
オレは大学に入学した時、大学の学生食堂で初めて納豆に遭遇した。それまで一度も納豆を見たことがなかったのだ。なんにでもチャレンジしようと当時は思っていたので、その納豆をトレーに乗せ、会計を済ませてから着席して、試しに食べてみた。口に入れた瞬間になんともいえない匂いと味が口内に広がった。うわっ! なんだこれは。ぐおおおおおおおおおお。駄目だ。無理だ。オレはとりあえずお茶と一緒にその口中のかたまりの飲み干してから、残りの納豆に手を付けずにあきらめた。
それがオレの人生ただ一度の納豆体験である。ただ、納豆を食べたことはその後二度ある。知人の家で出されたお好み焼きに納豆が入っていたこと、学園祭の時に生徒からもらったうまい棒が納豆味だったことである。お好み焼きは一口食べてから「すみません、納豆が苦手て・・・」とお詫びしたし、うまい棒は一口食べてから捨てた。納豆嫌いのオレに向けて仕組まれた生徒の悪質ないたずらだったのである。
最近の納豆は匂いもなく食べやすくなっているという話を聞く。また、テレビ番組では納豆がいかにすぐれた食品であるかをよく紹介している。しかし、オレはそんなものには動かされない。オレの「納豆を食べない!」という信念は不変である。大豆を食べるのならば、納豆を食べなくても豆腐や湯葉、豆乳という食品を選んだらいい。また発酵食品が健康にいいのならば、ヨーグルトを飲めばいいのである。オレは納豆のない人生を選んでいるのだ。それがオレの生き方である。
茨城県の小中学校では給食に納豆が出るらしい。もしも関西人の児童生徒が親の転勤のために茨城県に引っ越したなら、そこで納豆の洗礼を受けることになる。オレは学校関係者に言いたい。イスラム教徒がハラル食品しか食べないように、関西人が納豆を食べない権利を認めてもらいたいのである。
←1位を目指しています。
前の日記 後の日記