誰もが富貴であることを望み、貧賤であることを好まない。これは当然のことであると思うのだが、日本には「清貧」という言葉があって、質素な生活の中で道徳的な高みを求めるというのが立派な生き方とされてきた。
戦後になって身分制度が消滅し、昔の華族階級のようなものがなくなって特権階級というものが見えなくなった今でも「上級国民」は存在する。それは池袋の暴走事故で加害者の老人が在宅起訴であったりすることでたまに国民にバレてしまうのだが、少なくとも受験勉強をがんばって東大に入ることで誰でも「上級国民」になる機会は手に入る。「貧」のままで「貴」を目指すことは困難だが不可能ではない。
その一方で「貴」でありながら「貧」であるという生き方もやろうと思えばできるわけで、たとえば真子様が小室圭との愛を貫こうと思うならば、皇室を離脱して駆け落ちでもすればいいわけである。無収入のニートである小室圭はまぎれもなく「貧」であり、彼が吉野家やコンビニでバイトしながら真子様との生活を築こうとするならば、逆に「金目当てではなかった」ということで評価を上げるかも知れないのである。たぶんそんなことはしないと思うけど。
インドのカースト制度は生まれながらにして身分が決まっているものだが、日本の場合はそこまで固定されているわけではない。生まれた家柄で人生の多くの可能性は決まってしまうが、それは決して100%ではないのである。
一発逆転の手段はかつては受験勉強であった。高度成長の時代は受験産業がそれほど強くなかったし、中高一貫の私学に入れる階層も限られていたので、多くの若者は公立の中学高校から受験勉強に挑んだのである。
今は貧富の差が成績という結果にそのまま反映するようになった。小中学校が教育力を失い、教師はモンペとの対応に神経をすり減らして余裕がなくなり、いじめなどの事件も頻繁に起きて学校が無法地帯となることでますます貧富の差が開いた。金持ちはきちんとした道徳教育を受けられる私学に進めるが、そうでない人々はさまざまな生徒を受け入れてカオス状態になった公教育に頼るしかなかった。「富」であるものは学歴という「貴」を手に入れることができるが、「貧」であるものは受験勉強という競争に負けて入学試験の偏差値の低い大学に入ることになり、その学費を奨学金という借金で賄うためにますます貧しくなった。奨学金返済の滞納率ランキングの上位にはみごとにFランクの大学が並んでいる。教育における「賤」は同時に「貧」にも直結したのである
バブル崩壊後の失われた30年の中で日本は新たな階級社会に突入した。この流れを変えることはとても困難である。それは「無知」の実態が知識だけではなくて道徳面にも及んでいるからである。Fランク大学の学生にはさまざまな犯罪予備軍の誘惑が待っている。詐欺の受け子や掛け子という犯罪は、馬鹿な学生が「高額バイト」と勘違いしてどんどん参入してくる。それが犯罪であるという認識も持てないほどの馬鹿でも、大学には入れるのである。ネットで「高収入」「バイト」で検索すればそこには明らかに犯罪と思われる募集がヒットする。一方お金に余裕のある学生は、バイトではなくてボランティア活動などが可能になるのである。
コロナ不況が直撃するのはアルバイトや非正規雇用で生活している多くの貧しい人々である。このような状況下でも正社員は全く困らない。政府はさまざまな行事の自粛や中止を要請しているが、そのために収入を得られなくなった人々への救済策は全く存在しない。誰が彼らのような現代社会の貧者を救うのか。政府の無策ぶりにオレはあきれているのである。
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