2019年09月08日(日) |
災害で生き残るということ |
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東日本大震災の時、2階建ての大槌町の町役場は津波に飲み込まれ多くの職員が亡くなった。全職員の3割が命を落としたという。地震直後、津波が迫りくる直前に町役場は役場の前の屋外に震災対策本部を設置しようとしていた。テントを張って、長机を並べようとしていたその時の写真が残っている。もちろんその対策本部はたちまち津波に飲み込まれ、その時外にいた多くの職員が津波に飲み込まれて殉職することとなった。その一枚の写真がその後波紋を残したのである。
「なんですぐに逃げなかったのか?」
これは児童の多くが津波の犠牲になった大川小学校の悲劇でもよく語られることである。つまり、大川小学校の教員と同じく大槌町の職員にも「津波に対する警戒」という知識が決定的に欠けていたのではないかという批判である。
その地震がどれほどの規模なのか。そしてこれからどんなことが起きるのか。それはその場にいる当事者たちにはなかなか想像がつかないのかも知れない、昨年の大阪府北部地震で出勤後に激しい揺れに襲われたオレは、もしもこれが南海トラフ地震なら、あるいはこれが上町台地を震源とする直下型地震なら、それぞれどんな災害に発展するのだろうかとその場で考えた。大きな災害であるとして、生徒をどう避難させるべきなのか。どうすれば安全に行動できるのかということである。
大槌町の職員の中には津波にのみ込まれながらも助かった人たちがいた。彼らにとってつらかったのは、亡くなった同僚の遺族に会いに行くことだったという。そして「どうして彼は死んだのに、自分は生き残ったのか」という自責の念を常に感じることが苦しかったのだという。
津波の犠牲になった方の遺族は、津波被害の中から生還した人に会ったときに「どうしてこの人は生き残ったのに、私の大切な人は亡くなったのか」などという気持ちを抱くという。これは昭和19年に撃沈された沖縄からの疎開船「対馬丸」の生存者に対する遺族の気持ちと似ている。誰も責めることはできない。でもそこで「なんで助かる人とそうでない人がいるのか」と考えてしまうのだ。
幸いにも生き残った方も「なんで私が助かってあの人が死んだのか」と自分を責めてしまうのだという。これはある意味戦争から復員してきた人の持つ罪悪感にも似たような複雑な心境とよく似ているのかも知れない。
災害で命を落とすことは大きな悲劇だ。だが同時に、目の前で同僚や家族を失った人の心には「どうして自分は助かったのか」ということが大きな痛みとなって残るのである。そしてずっと自問し続けることになるのだ。命を落とすことは瞬間の出来事だが、助かった人の心に残る自責の念はいつまでも続くのである。自分は助かってよかったと単純には思えないつらさがそこにあるのだ。
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