2019年03月29日(金) |
裁判に於ける正義とは何か? |
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松橋事件が再審無罪という結果となった。自白偏重の日本の司法制度の欠陥があらわになった典型的な例だと思うのだが、どうして検察側は「犯人を起訴する」ということのために都合の悪い証拠を隠してしまうのだろうか。強引な取り調べでむりやりにやってもない罪を自白させ、その自白調書を今度は裁判の時によりどころにするという手法はもはや限界になってるということをいつになったら日本の警察や検察の方々は理解するのだろうか。科学捜査が普通になって、DNA鑑定や監視カメラの映像が重要な証拠となる現代において、どうして自白偏重主義が残存してるのかオレにはわからないのである。
その一方で性犯罪の多くが無罪とされていく流れがある。安倍首相のお友達だったということで不起訴処分にしてもらった泥酔強姦中出し男の山口敬之は、今度は伊藤詩織さんを「名前を売ろうとして被害者ビジネスに自分を利用した」という形で訴えるようである。最高にゲスな人間である。前後不覚に酔った女性が抵抗できないときに性行為に及ぶのは男としてクズであることは言うまでもない。
名もない市民の場合は冤罪の可能性があってもこうして長期拘留されたり自白を強要されたりする。ところがそれが高級官僚や安倍晋三のお友達となると、明らかにうそをついてるのに擁護されるし、それで罰を受けることもない。裁判所のこのダブルスタンダードにオレはあきれている。どうして森友・加計学園の事件に関与した官僚どもをみんな連日連夜の拘留で締め上げて自白させなかったのか。調べる気がもともとないのである。個人に対する犯罪に対しては無関係な人をとにかく犯人にしようとするのに、国家国民を欺いた大罪に対してとてつもなく甘い。これが日本の司法の現実である。
このように正義を忘れた裁判官どもは全員クズだ。オレは国民審査の時にたいてい全員に×をつけて投票する。おまえらは一度も正義を貫くために国に逆らったことがないじゃないか。常に国家の犯罪を見逃してきたじゃないか。そんなカスどもに法の番人の資格はないのである。日本の司法制度は完全に死亡したとオレは思っている。
冤罪を一つ作り出すということは、一人の真の犯罪者が逃げおおせるということである。有名な冤罪事件である足利事件においては、一人の作家が真犯人にたどり着いてインタビューまでしてるのだが、警察は再捜査もしないし、連続殺人犯をそのまま放置したままである。警察の捜査能力は時々週刊文春にも負けているのである。
裁判における真実とは何か。それは正義を実現することである。真犯人を捕まえ、無実の人を捕まえないことである。ところが現場には「犯人じゃないかも知れないけどこいつを犯人に仕立てておくか」という行動をとる司法関係者が存在するのだ。すべての証拠が弁護側に開示されているわけではないのだ。
正義が正義として通用しない社会は暗黒社会である。今の日本は急速にそうした社会に突き進んでいく。すべては森友・加計問題が発端である。安倍晋三のお友達ということで有罪の人間たちをかばった結果、それ以外の罪人もみんな無罪にしないとバランスが取れないということになってしまったのである。
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