2019年02月26日(火) |
京都大学を守れ! |
携帯用URL
| |
|
京都大学の前期日程の入学試験が終わった。前期試験の日の早朝に出現する「折田先生像」は入学試験の一つの風物詩だった。地元の新聞でも紹介され、過去の折田先生像の写真を載せたサイトもある。今年は平成最後の年ということで、今年の折田先生像は「小渕恵三」だったのである。
しかし、その折田先生像は大学当局にとってその日のうちに撤去されてしまったという。例年ならしばらくの間そのまま残されていて、訪れた観光客が記念写真を撮ったりしていたのでオレも京都に出かけるついでがあれば見てみようと思っていたのだ。それがすぐに撤去とはどういうことだ。折田先生像もまた規制の対象である「立て看」と同類だとみなされたのだろうか。
京都大学では昨年、大学周辺の立て看が「景観を損なう」という勝手な理由で撤去されるという事件が起きた。オレは立て看そのものが京都大学の一つの景観であり、その存在が京都大学のアイデンティティーみたいなものであると思っていた。だから立て看規制には反対の立場だった。大学当局が立て看板を規制し、吉田寮の学生自治を排除し、管理強化に努めようとしていることで失われるものは何か。それはかつての京都大学が持っていた古き良き文化である。
オレは京都大学が好きだ。好きだからこそがんばって受験勉強してそこに入学したのだし、京都大学出身の人が活躍すると嬉しくなる。自分が教えている高校生たちが京都大学を目指してがんばっていることをいつも応援している。ところが現実の京都大学がオレが思い描いた自由な学問の場ではなく、大学当局によって厳しく管理された世間一般の普通の大学のようなものになってしまっているのならオレは困るのである。オレにとっての京都大学はいつまでも昔のままの姿であってほしいのだ。どうして大学は管理を強化するのか。
折田先生像の制作とは「どうでもいいことや無駄なことに時間を費やし、真剣に取り組む」という姿勢の表れであり、それは学問探求の基本である。なんでそんな研究するのか?と世間に笑われながらも取り組むことが、いつかはノーベル賞につながったりするのである。この世に無駄な学問などない。もしも無駄な学問があるとしたらそれは武器の研究や大量破壊兵器の研究くらいだ。人類を不幸にするそんな無駄なことにわざわざ取り組む連中はそれだけで死刑に値するとオレは思っている。世界の兵器産業のトップを全員殺人罪で処刑してしまえば。兵器産業なんてものはなくなるだろう。
反戦平和を希求し、常に政治に対して批判的なスタンスで臨み、権力に抗して学問の自由を守るのが京都大学の存在意義である。オレはその卒業生であることをいつも誇りに思っている。
学生たちが立て看板で自分たちの主張を行うことのどこがいけないのか。自由にモノが言えない社会がどこに向かっているのか。マスコミまでも政治権力に支配され、沖縄の県民投票の結果が黙殺され、官僚の不正が何の処罰も受けないこの最低最悪の自民党政治の中で、京都大学の立て看板は学生たちが正義を訴え、国民へ連帯を呼びかけるための手段であり、多くの人たちの目に留まることで世間にアピールできるものである。その発言手段を奪うことで大学は学生を大学当局の思い通りに従う従順な羊としてコントロールしようとしている。
オレはそうした規制に断固として反対する。このままでは京都大学が終わってしまう。オレが愛した京都大学ではなくなってしまう。どうか卒業生のみんなが声を上げてほしい。管理強化しか考えてない総長を追放して、京都大学に学生の自治を取り戻すために協力してほしい。
←1位を目指しています。ちょっと下がってきて焦っています。
前の日記 後の日記