2019年02月05日(火) |
名古屋城にエレベーターはいらない |
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河村市長の公約の一つであった名古屋城の天守閣が木造で再建され。建設当時の姿をできるだけ忠実に再建しようとしているわけだが、当然のことながらそこにはエレベータはーはない。なんとそのことに対して障害者の団体が反対しているそうである。つまり、足の不自由な高齢者や障害者も天守閣に登壇する権利があり、エレベーターを設置しないということはその権利が侵害されるというのである。オレはあきれたのである。どうしてそんな主張ができるのか。
江戸時代の名古屋城にはエレベーターはなかった。だからその当時の姿を復元しようとしている天守閣にエレベーターを設置しないのは当たり前である。そこにエレベーターがあればそれは自然の姿ではない。
富士山にエスカレーターを設置して、誰でも簡単に登れるようにしたい。そうすれば障害者も高齢者もどんどん登れるようになるということを主張する人がいれば「アホか?」と思うだろう。富士山は登山の対象である。そこに登るのは屈強な足腰が必要なのである。もしもエレベーターでれるようになったらもはやそこは登山の対象ではなくなる。
南米のアコンカグアを登頂しようとして断念した老人がいたが、若者でも大変困難な山によぼよぼの老人が無理に登らなくてもいいのである。オレが言いたいのは一言、「無理するんじゃねえ」である。ましてや話題作りとか金儲けのために登ろうとするのは登山に対する冒涜である。
ボランティアの方々が車いすをかついだりして富士登山するイベントが昔あったと思うが、オレがそのイベントで感じることは「偽善」だけである。ボランティアの方々は自分たちのやったお節介を崇高な行為であったと思い込み、無理やり富士山に連れていかれた車いすの方々は「もしも車いすごと落下したらどうなるんだろう」という恐怖を味わったわけである。そんな余計なことは全くする必要がない。
バリアフリーになってさまざまな場所に行けるようになったし、駅や公共交通機関も車いすで利用しやすくなった。しかし、そうしたインフラ整備はどこにでも必要なのだろうか。隠れ家的なレストランが狭い階段を上った二階や降りた地下にある時、そこに連れて行けと主張する方がいればそれはまわりが苦労してかなえないといけないことだろうか。オレはそうではないと思うのである。夜中にバナナが食いたいといわれたら断るべきなのである。同じ目的を達成するためには他に行ける場所がたくさんあるのに、わざわざ実現困難なところに行かなければならないというのはおかしいとオレは思うのだ。
心肺機能に不安のある老人は高尾山にでも登っていればいいのである。そこなら万一倒れてもすぐに救助してもらえるだろう。おまえのその道楽のためにどれだけ周囲が困ってるかわかってるのか。
こんなことを書くと「健常者のおまえにはオレたちの気持ちはわからない」と叩かれ、炎上するかも知れないのだがそれでもオレは断固として主張したいのである。名古屋城にエレベーターはいらないと。今朝、エレベーターの設置を求める新聞の投書を読んでオレはただ一言「アホか?」と思ったのである。
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