2019年01月17日(木) |
あれから24年〜災害列島で暮らす意味 |
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阪神大震災が起きてから24年になる。あの朝のことは今でも鮮明に思い出せる。あの時1分近く続いた激しい揺れを感じながらオレは布団の中で「このまま家が崩壊して押しつぶされて死ぬ」ということを覚悟したのだから。
幸いなことに我が家は倒壊することもなく、本棚の本が室内に散乱するとか、上に置いてあったものが落ちるとかの被害はあったがそれほど深刻な被害はなかった。しかし揺れの大きかった阪神間は大変なことになっていた。阪神高速道路の神戸線の橋脚が倒壊し、新幹線の高架橋も一部崩落した。もしもあと2時間遅く地震が起きて朝の通勤ラッシュと重なっていたらどれほど大きな被害になっていただろう。始発前のほぼ無人の時間だったからこそまだ被害はあの規模だったのである。時速200キロ以上で走行中の新幹線が脱線して高架橋から転落していたらどんな大惨事になっていただろうか。どんなに安全対策をしてもそこには限界がある。我々は大きな災害を経験することでしか学べないのである。
6000人を超える地震の犠牲者の多くは「圧死」であった。耐震性のない建築物がその一瞬で倒壊して、そこに暮らす人々の命を奪ったのである。建築物の耐震基準は阪神大震災を契機に見直された。あの震災がなかったら危険な建築物の多くはそのまま放置され、さらに建てられていたことは間違いない。
大阪は昨年大阪府北部地震を経験した。阪神大震災以来の強い揺れに衝撃を受けた人も多かったはずである。震災の後に生まれた若者たちにとってもまた「地震の恐ろしさ」を意識する出来事となった。
災害が起きない年などない。日本では毎年なんらかの自然災害によって人命が失われている。我々の暮らしている日本列島というのは災害から逃れられない宿命なのだ。人間の暮らしている数十年の一生など地殻変動の歴史から見ればほんの一瞬である。7000年前には火砕流と火山灰で九州全域が被害を受け、九州の縄文文化は消滅しているのである。それほどの大災害が明日起きないと誰が保証できるだろうか。火山の噴火というのは突然起きるのである。
東日本大震災の時、防災教育を徹底して適切に避難することで多くの人命を救った釜石中学校の奇跡があった一方で、教員が避難方法で意見を対立させているうちに全校生徒が津波に飲み込まれるという大川小学校の悲劇が起きた。避けられない災害を前に何が一番大切なのかということを我々は教えられたのである。それは「どうしたら一人でも多くの命を守れるか」という意識だ。
阪神大震災の追悼行事がどんどん縮小されたり、廃止されたりしているという。震災の記憶を受け継ぐ人たちの高齢化も進んでいる。太平洋戦争の記憶を持つ人がいなくなって日本が「戦争できる国」になってしまうように、阪神大震災の記憶を持つ人がいなくなって震災のことが忘れられれば、防災教育も後退してしまうのかも知れない。
淡路島には「野島断層保存館」という施設があって、断層の起きた地層部分が保存されていて見学できるようになっているのだが、その来館者はどんどん減っているという。この施設では阪神大震災の揺れが実際にどんな規模であったかを部屋で体感することもできるようになっている。関西の小学校は遠足で必ずここに行くことを義務付けるべきだとオレは思うのである。今は遠足での来館も減っているらしい。
東日本大震災の時は、最後まで緊急放送で避難を呼びかけながら津波で犠牲になった人がいた。阪神大震災では火事の炎が迫る中で家族に「オレのことは見捨てて逃げろ」と伝えて亡くなった人がいた。誰かの尊い犠牲の上に守られた多くの命があったことを我々は決して忘れてはならない。それが今を生きる我々の使命である。あの記憶を語り伝えることでしかできないことがある。
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