2019年01月14日(月) |
漢文の教養について |
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デートしていて、一緒にいる相手から「ねえねえ、楽しいでしょ?」と訊かれたときに、真顔で落ち着いて
「また、楽しからずや」
と答えたら、その真意はきちっと相手に伝わるだろうか。このフレーズの意味がわかるかどうかは、漢文の教養があるかどうかで左右されるのである。
論語の中にこのような一節がある。
「学びて時に之を習う、亦(また)説(よろこ)ばしからずや。
朋の遠方より来たる有り、亦(また)楽しからずや。」
この「また楽しからずや」というのは、「詠嘆形」という句法で、「なんと楽しいことではないか」という意味になるのである。「楽しからず」を「楽しくない」という意味に勘違いしてはいけないのである。
相手がきちっと高校で古典を学んでいて教科書に必ず載ってるような論語の一節を理解していれば、その場面で自分の答えたフレーズは正しく理解してもらえるはずである。しかし、相手がそこで「えーっ、楽しくないの?」と答えたとしたら、意味が通じなかったということであり、相手に教養がないという意味である。そういう相手とは付き合う必要がないという結論を出せばいいのだ。これは昨日の記事に書いた「瀬をはやみ」の和歌と同じである。教養のない相手は恋人として交際する相手としては不足である。
中学や高校で学ぶ教養というのは文化の基盤となるものである。理系でも歴史や古典は知っていて欲しいし、文系でも基本的な数学や理科の知識は持っていてほしい。それがオレの考えている「高校で学ぶ」ということの意味である。生活に必要最小限の知識しか持たない薄っぺらな人間になって欲しくはないのである。
価値観を共有できない相手とは会話が成立しない。教養のない馬鹿な相手とは政治や文化についての話ができない。オレはそういうことを思うのだ。おたがいが教養のない者同士のカップルの間にいったいどんな会話が成立するのだろうか。動物のようにただうなり声を交わすだけのコミュニケーションしかできてないのか、あるいは本能的にただ交尾するだけなのか、そういうカップルは情けないと思うのである。
今は漢文の学習を全くしない高校も多い。偏差値50以下の高校では授業で漢文を扱わないのが普通である。誰もセンター試験を受けないような高校ではそもそも漢文のニーズが存在しないし、まともに教えられる国語の教員もいないのである。
オレはふだんの授業で生徒に漢文を教えているが、それが日本人の大切な教養であるということをわかってないヤツらが増えたことを嘆かわしく思っている。学習指導要領がどう変わっても、漢文教育を軽視するということは起きてほしくないのである。
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