2018年10月03日(水) |
オレは非国民になりたい |
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新たに就任した文部科学大臣が「教育勅語にはよいところもある」と発言したことが話題になっている。また入閣した片山さつきはかつて「天賦人権論」を的外れな引用で否定した過去がある。努力しないヤツには人権なんか与えてやらないぞという傲慢な内容だったとオレは記憶している。自分たちのような自民党国会議員というエリートさまと、おまえら虫けらの一般国民に同じ人権があってたまるかという階級意識をオレはそこから感じたのだが、特権階級にいる我々はルールを多少破ってもお咎めなしという彼らの感覚は森友・加計学園の一連の問題で明らかになった。賄賂をもらって失脚した連中も次々と復権した。
検察が政治家やそのお友達の犯罪に対してやる気がないことは昔からはっきりしている。甘利明が不起訴処分となったのもその一つである。レイプ野郎の山口敬之も同じなんだが、「不起訴処分」というのは潔白という意味ではないのである。そこを誤解してはならない。犯罪事実は存在したが、証拠がもみ消されていたりしてやむなく「不起訴」にしただけのことである。それを「不起訴だから潔白だ!」と開き直る自民党の支持者を見るとあきれてしまうのである。おまえらそこまで犯罪者の肩を持つのか。おまえらには道徳心というものがないのか。
かつてこの国は「愛国心」ということを学校で教え込み、天皇陛下に忠義を尽くして死ぬことが美徳だと国民を洗脳した。その象徴が「教育勅語」である。そして、従わない人間を「非国民」と罵ったのである。オレは最近になって政治家の主張する「愛国心」の実体がわかってきた。どうやらオレの思っていた愛国心と、安倍晋三や日本会議の連中が提唱する愛国心は中身が違うのだ。
オレの思っていた愛国心は、美しい国土を愛し、自分の家族や周囲の人々、そして日本の伝統的な文化を愛し、日本という国を好きだと感じるものである。ところが右翼の連中や戦前のアホな軍人が主張する愛国心は「天皇陛下への忠義のために死ねるのが国を愛することだ」という意味だ。あの太平洋戦争の時に1億玉砕なんて馬鹿なことを本気で考えていた軍人どもに洗脳されて、本当に国が失われる寸前まで進んでいったということを反省して作られたのが今の日本国憲法ではないのか。
どうして戦争の時に下級兵士は命を捨てて戦うのか。中国では督戦隊というものがあって、逃げ出す臆病な兵士を後方から撃ったりした。日清戦争の時、中国軍の兵士は逃げられないように鎖で足をトーチカにつながれていた。ところが日本軍の兵士は勇敢にたたかった。そのように洗脳教育されていたからである。しかし、戦場で見知らぬ他国の相手を殺すという行為そのものが正しいのかどうかという疑問を誰も感じなかったのだろうか。
戦前の日本では愛国心や天皇陛下への忠義というものは、命を捨てて勇敢に戦う兵士を作り出すためのイデオロギーとして機能した。もともとと何の大義名分もない戦場での無差別殺人という行為を、中国軍は「しなければ殺す」という恐怖でコントロールし。日本軍は「天皇陛下に忠義を尽くす」という愛国心によってコントールしただけのことである。そもそも外国に出かけて行ってその土地の人間を殺すことに何の正当性があるのか。
戦争が起きればオレは戦うのか。「否」である。オレは非国民でいい。オレはクソみたいな政治家どもが振りかざすまやかしの愛国心なんかにだまされない。もしも戦争が起きるなら、オレは日本に攻めてきた他国の民と議論したい。「きみたちのしている戦争は果たして正しいのか」「きみたちはいったい何のために戦うのか」市民が本当に戦うべき相手は。戦争を仕掛けて大勢の命を失わせることが平気でできる国家の指導者ではないのか。プーチンや習近平やトランプや金正恩(そして安倍晋三)のような、戦争で国民が死ぬことなどなんとも思っていない政治家こそがこの地上から排除すべき存在ではないのか。
「中国や北朝鮮が攻めてくる」という脅威をあおって軍事費がどんどん増加することに大義名分を与えていることを国民はいつまで支持するのか。今すべきことは中国の人民に対して「あなたたちの指導者のこのような帝国主義的な拡張政策を肯定するのですか?」と問いかけることではないのか。対立をあおるのではなくて、戦争によって犠牲になる国民同士が連帯することが戦争を起こせなくするのではないか。オレはそう思うのだ。
オレは国家にはだまされない。自分の考えをつらぬく非国民でありたいと思ってる。このようなことを書くとオレの勤務先に右翼の街宣車がやってきそうである。「非国民に教師をさせるのか!」と。
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