2018年05月14日(月) |
京大立て看撤去に関する私見 |
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立て看のない京都大学など、もはや京都大学ではない
京都大学で4年間過ごし、そして京都の街をこよなく愛しているオレにとって、どうして京都大学の立て看が景観の破壊になるのか全くわからない。大学のそばを通れば必ず目に入るそのさまざまな立て看は「ああ、京大の名物だな」というふうに受け止めていたし、それは街中にあふれてるものではなくて京都大学に行かなければ目に入らないものである。なんで規制しないといけないのか。
「景観破壊」ということばは実に主観的だ。恣意的に権力者側がそれを使ったとき、民衆はそれに対してしっかりと抵抗すべきである。もしも権力者が不細工な顔なら、オレはついつい「おまえの顔の方が景観破壊だぜ」と口を滑らせるだろう。
京都ではマクドナルドもローソンも通常の店の色とは違った外観である。景観に配慮してそういうことになってるらしい。それはマクドやローソンがそこらじゅうに存在するからであり、そうした規制に対してオレは異論は無い。
何が景観を破壊するのか。もっとも京都の景観を破壊してるのは京都駅であるとオレは常々思っている。あのばかでかい建造物がどれほど京都の玄関口としてふさわしくないか、オレは京都駅に行くたびに思うのだ。なんで京都駅は巨大な和風建築にしなかったのだ。あそこは全然京都らしくないのである。
同志社大学の今出川キャンパスを歩くと、レンガ作りの古い建物と新しく完成した校舎が見事に調和している。そしてキャンパス内にはもちろん立て看などない。それはそうしたものがキャンパスのイメージにふさわしくないからである。同志社大学は同志社大学らしく、京都大学は京都大学らしく、それぞれの大学が自分の立ち位置をわきまえて存在し、学生たちもそれを理解しているのである。同志社大学や同志社大学生には立て看は似合わないのである。だから同志社には立て看の文化がないのだ。
京都市から「立て看が景観を破壊している」という馬鹿な申し入れがあったとき、京都大学の事務方はその乱暴な言いがかりに対して断固拒絶すべきだったのだ。あの「折田先生像」というふざけたモニュメントを撤去もせずに多くの受験生に見せているフトコロの深さがあるならば、「立て看は京大の文化だ!」という主張もできたのではないかとオレは残念に思うのである。
せっかく京都大学に入学しながらろくに4年間勉強もせずに遊びまくった結果、オレはたいした著作物を残せたわけでも無く、すぐれた文学作品を生み出したわけでも無く、教室でくだらないことを放言するだけの暴言教師にしかなれなかった。ただ、オレに宝物のような4年間を与えてくれて、多くの経験や友との出会いを与えてくれた京都大学をこよなく愛しているのである。その思い出の中にはあのさまざまな立て看を眺めて苦笑していた時間ももちろん含まれるのだ。
クルマで東大路を走ると、立て看が自然と目に入る。それで「ここは京都大学」ということがいつもわかったのである。立て看というのは京都大学周辺を意味する一種のランドマークでもあったのだ。それによって道に迷わずに済んだ人も大勢いるだろう。それほどに価値があったものをあっさり捨て去ってしまうという無神経さがオレには理解不能なのである。
こんなくだらない条例を押しつける京都市の担当者は、もしかして京都大学に恨みがあるのか。おまえが昔京都大学を受験して不合格だった腹いせなのか。いやいやそれはゲスの勘ぐりというものである。
立て看では無くて垂れ幕ならOKなのか。あるいは立ててなくて「寝看」ならOKなのか。現役京大生はウラをかいてあれこれと工夫してもらいたいものである。そしてお上からの命令に唯々諾々として従うような連中に、学問の自由などとうてい守れないとオレは思うのだ。オレの愛した京都大学はいったいどこに行ってしまったのか。
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