2018年01月18日(木) |
世間はどうして美談を押しつけるのか? |
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今年も文春砲が炸裂した。音楽プロデューサーの小室哲哉が不倫疑惑を報道されているわけだが、そっとしておいてやれよと思うのである。どうして世間はそんなことを話題にするのか。オレはむしろ小室哲哉に同情してしまうのだ。一度「闘病中の妻を支える」という美談の主人公になれば、その役柄をずっと演じ続けないといけないのである。「めんどくせえ!」と言って他の女と遊ぶことは許されないのである。
亡くなったオレの父がまだ元気だった頃、広島カープの津田恒美投手のことを取り上げた番組で出てきた津田投手の奥さんを見てオレの父は言った。「こんな番組作るなよ。こんなきれいな人は、夫が死んだらさっさと別の人と再婚したらいいんじゃないか。」と。オレはその父の言葉の意味がその時はわからなかった。しかし、人は変わるものである。何十年もかつて好きだった相手を思い出すだけで生きていくわけにもいかない。ひとたび闘病中の夫を支えたという美談の主人公になってしまうと、今度別の人を好きになったとしても世間は「もう夫のことは愛してないのか」と無責任に批判するのである。若くして夫を亡くした女性が新たな相手と恋に落ちたとしたら「大切な夫の思い出を裏切るのか!」と責めるのである。オレはそんな人たちには同調できない。
新たに人を好きになってどこが悪いのか。もしもオレが若くして病に倒れていたなら、配偶者には「早く再婚しろよ」と言うだろう。まだ20代の頃のオレなら「ぼくは一生きみの思い出だけを胸に抱いて生きていくよ」というセリフがカッコイイと思っていたが、今のオレはもっと現実的になった。他の誰かを決して好きにならないなんてありえないのである。
そしてこんなことも思うのである。もしも好きになった相手が死んでしまった恋人の思い出に支配されているのならば、その部分も丸ごと引き受けて愛するのが相手を本当に受け止めるということじゃないかと。
小室哲哉はリハビリに励む妻KEIKOを「僕にはこの人しかいない」と言ってしまった。そのときは本当にそういう気持ちだったのか、あるいは美談の主人公となることがその後の芸能活動にプラスと考えたからなのか、それは第三者にはわからない。ただ、6年前にそう言ったからといって、今も同じ気持ちで居るかどうかはわからないわけだし、ここで別の女性と交際したことをオレは責める気持ちにはなれないのである。闘病中の妻を支えるという同じ状況で、もしも自分の近くに自分のことを想ってくれる若く美しい女性が存在したとして、そこで心が全く動かないという男がいたらそれは仙人かEDのような気がするのだ。
だから世間で「妻を支える立派な夫」という美談の主人公になってる人が浮気をしてるのを仮にオレが知ったとしても、たぶんオレの受け止め方は「まあそういうこともあるんじゃないかな」くらいなのである。人は100%の善人でもないし100%の悪人でもない。そういうものだとオレは思っているのである。
誰と誰が不倫してようが付き合っていようが。そんなことはオレはどうでもいい。ただ国会議員が無料パスで乗ってる新幹線で不倫相手と手をつないで寝ていたり、議員宿舎をラブホテル代わりに使ってることに対しては不快感を覚えるのである。そういうカスの不倫問題はどんどん週刊新潮や週刊文春に叩いてもらいたいのである。
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