2018年01月17日(水) |
1月17日、あの日を忘れない |
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阪神・淡路大震災のあの日からもう23年になるのだ。オレが実際にその激しい揺れを体験した唯一の地震であり、布団の中で「このまま家が崩れて圧死する」ことを覚悟したあの瞬間のことをオレは生涯忘れない。その同じ瞬間、阪神間で大勢の人が倒壊した家屋の下敷きになって圧死していたこともオレは忘れない。
淡路島から阪神間という狭い地域に被害は集中した。その狭い地域で6435名もの方が犠牲になったあの大地震で、多くの方が自分の家族や友人、知人、学校でのクラスメイト、大学のサークルの友人といった大切な人を失った。誰もが自分の知ってる人を失ったのだ。その記憶と共にあれから23年生きてきたのである。同じ家に居て、同じように被災して下敷きになって、家族を亡くしたのに自分は助かったという人がたくさんいる。なぜ助かったのが自分なのか。どうして自分が身代わりになれなかったのか。多くの人がそうした痛みと共に過ごしてきたのである。
大切な家族を失った痛みはいつまでも消えることがない。記憶の中の時間はその瞬間で止まったままである。家族全員を失って自分だけが助かった人もいた。長いことPTSDに苦しみ、今もなお立ち直れずに苦しんでいる人もいるのだ。震災の記憶は、忘れたくても忘れられないつらい部分なのである。心の中に封印しておきたいものなのである。だからこそオレは、世界一のクリスマスツリーとかで「鎮魂」を商売にしてゼニを儲けようとしたクソ野郎が許せなかったのだ。
神戸市には「阪神淡路大震災記念・人と防災未来センター」という施設がある。そこに入館するとまず最初に5分間程度の地震の再現映像を見ることができる。激しい揺れでビルが倒壊し、住宅が押しつぶされ、橋桁の上の高速道路が波打つように揺れる様子が映し出される。オレの目の前で子どもは恐怖のあまり泣いてしまい母親に抱えられて退席したのである。
あの揺れの恐怖は体験した者にしかわからない。そして、それだけの揺れを自分も体験していたのに自分の目で周囲の被害を視察することもせず、ふんぞり返って迎えの車が来るのを何時間も待っていた貝原知事はクソ野郎だとつくづく思う。交通が寸断されていても知事公邸から県庁までは歩いても30分で着ける。なぜ一刻も早く県庁に出勤して現場の指揮を取ろうと思わなかったのか。その災害の中で自分にできる最善を尽くさなかったのか。兵庫県知事の彼がどうしようもないボンクラだったこともまた犠牲者を増やすことになった一因である。
震災以後何が変わったのか。住宅の耐震基準は大きく改正された。その後の地震では旧基準で建てられていれば倒壊したかも知れない多くの建築物が被害を免れた。防災意識が高まり、オレの勤務先でも生徒の人数分の避難キットを備蓄することになった。あの震災は人々の意識も変えたのである。地震が「いつ起きてもおかしくない」ということを住民は等しく理解したのである。
これからも神戸では慰霊のための行事も、鎮魂の祈りもおそらく震災の記憶を持つ人が存在する限り続いていくだろう。期間限定だったはずのルミナリエも毎年の風景となった。どうか神戸に行く機会があれば、観光や食べ歩きといった普通の観光客のする行動だけではなくて、犠牲者の名前を記したプレートの前で静かに手をあわせて欲しい。あの日に失われた魂のことをどうか心に留めて欲しい。
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