2018年01月03日(水) |
わざわざ差別を作り出す人たち |
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年末恒例のお笑い番組「笑ってはいけない」シリーズは今年も視聴率17%を超えた。紅白歌合戦の裏番組でありながらこの視聴率は驚異的であり、国民的お笑い番組として認識されている。2017年のテーマは「アメリカンポリス」ということでダウンタウンの浜田雅功が、肌を黒くメイクして「ビバリーヒルズ・コップ」に扮して登場した。エディ・マーフィーの物まねなんだから黒塗りメイクして当然である。ところがこのことに関してアフリカ系アメリカ人で横浜に住むベイ・マクニールさんという作家が不快感を示したという。
日本では数々のものが「黒人差別」を連想するとして追放されていった。手塚治虫のアニメ「ブラックジャック」は、原作では黒人の少年から顔の皮膚を移植用にもらったブラックジャックの顔半分が黒くなっているのだが、リメイク版のアニメではそれをわざわざ青く変えていた。つまり「黒い皮膚」が黒人を連想させ、それが差別的だというのである。
カルピスのロゴマークが変えさせられるということもあった。「ちびくろサンボ」という絵本が絶版に追い込まれ図書館から追放されるということも起きた。しかし、それらを見たり読んだりした日本の子どもたちがそれを差別的なものとしてとらえていただろうか。否である。日本にはそもそもアメリカに存在するような人種差別的な空気はなかったのであり、それを勝手に植え付けようとしてるのは実は「差別を無くせ」と声高に叫んでいる人々なのである。
戦前の日本は国際連盟で「人種平等宣言」を提唱したが、人種差別を国策としていたアメリカやイギリスの反対でつぶされている。そんな差別の歴史を持つ国の分際でアメリカやイギリスの連中が「人権」を叫ぶなど千年早いのである。おまえらは日本よりも千年以上も人権思想の遅れた田舎者の国なのだ。ふざけるなとオレは言いたいのである。アメリカで人種差別がいつまでもなくならないのは、アメリカ人の人権意識が日本人よりもはるかに劣っているからである。
仮に日本の中学校にアメリカから黒人の少年が留学したとする。その送別の会の時に一緒にダンスする日本の少年少女が黒人風に黒塗りメイクしたとしてそこに悪意が存在するだろうか。否である。日本の若者はそれを好意の表現として行ってることは明らかでありそこに差別の思想は全くない。ところがそれをどこからか聞きつけた「差別を作ることが大好きな人たち」はそのニュースを勝手に悪意に解釈して「黒塗りメイクで留学生の気持ちを傷つけた」などと創作記事を作ってしまうのである。オレに言わせれば「アホか!」の一言である。
アメリカ人が黒塗りメイクに対して不快感を感じるのはそれはアメリカ人の心の中に彼らが黒人に対して行ってきた数々の差別の歴史を思い起こさせるからであり、その差別が現在進行形で続いているからである。アメリカの大学が入試の際に成績が低くても黒人だから合格にしたりするのは逆差別によって過去の贖罪を行ってるようなものであり、日本人の目から見ればそもそも入学願書の書類に人種を記入させてる時点で差別以外の何ものでもない。そんな単純なことがアメリカ人にはわかってないのである。少なくとも日本の大学入試の時には国籍や人種は全く問題にならない。受験資格のあるなしだけが問題なのである。
どこの国の人間であろうとどんな人種であろうと、能力のある者や努力をした人が正当に評価されるのが真に平等で公平な社会である。そういう意味ではオレは日本の社会はかなりすぐれていると思っている。ちゃんと高校を卒業しさえすれば誰でも大学の入学資格が得られるし、そこからすべての職業への道が開けているのだ。高校を中退した者に対しても高卒認定試験の制度がちゃんと存在し、その試験内容はかなりやさしいのである。貧しい家に生まれた子でも、東京大学に入って官僚になるチャンスはちゃんと用意されているのだ。勉強して成績を上げさえすればその夢は叶うのである。
そんな平等社会の日本から見れば、いつまでも人種差別をやめられないアメリカはとんでもない後進国に思えるし、年間に銃で撃たれて3万人が死んでる国なんてろくなもんじゃねえと思うのである。そんなクソ田舎の無法国家であるアメリカから日本の番組が非難を受けるとしたら、「おまえの国には言われたくねえよ」と答えたいのである。
全く差別でも何でもないものに「これは差別だ」といちゃもんをつけることを商売にしている人たちこそが、心の中に差別を飼っていて差別意識に凝り固まってる人に間違いないとオレは思っている。
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