2017年11月25日(土) |
オレはウソが嫌いである |
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人はウソをつくときには後ろめたい気持ちになるものだ。日常生活の中で人と話していて、ああこの人は今ウソを言ってるんだなと気がつくときがある。そんなとき、そのように言い訳しないといけない相手の心中を思うと同情的な気持ちになるし、それほど腹が立つということもない。たとえば受験が迫っていて焦ってる生徒が、比較的受験に関係がない科目ばかりある日の授業を休んで、家で勉強したくなるというのはよく理解できる。
そこで「腹痛」とか「発熱」という理由で欠席することに対して、「ずる休みだ!」と目くじらを立てる気持ちは毛頭ない。自分が受験生ならそういう行動を絶対に取らないとは言えないからである。もっともすべての休んでる受験生が家で必死で勉強しているわけではなくて、中には家でゲームしたり遊んだりしてる者もいるだろう。すでに合格をあきらめている者もいるかも知れない。
オレが嫌いなのは潔くないウソである。たとえばホテルに一緒に宿泊したことが明らかな男女が「徹夜で仕事をしていました」などと答えるのは情けない。ただその行為をまるで鬼の首をとったかのように「フリンだフリンだ!」と騒ぎ立てるのも惻隠の情を欠くというのか、そんなこといちいち指摘するなよと思うのである。
過去に一番腹が立った生徒のウソがある。、まだ公立高校に勤務していたときのことだが、変形学生服を着てくるDQN生徒が居て、まるでパッチか股引のように細くしぼった学生ズボンがはやっていた。いつもそれをはいているDQN小僧が、生活指導の先生の前で「今日初めてはいてきました。」としゃあしゃあとほざいたときに、横にいたオレはその生徒を平手で張り倒した。「ふざけるなあ、いつもはいてるやんけ!」と怒鳴って。
今なら体罰で大問題にされただろう。しかし、30年以上前の学校では生徒は良く先生から殴られていた。オレは体罰しない派だったが、そのときは目の前のウソつきが許せなかった。あとで教頭から叱られた。「殴るときは他の教員の見ていないところで殴れ」とのことだった。
堂々とウソをつくという行為は恥ずかしい。それがオレの思うことだ。今オレがそれを感じるのは中国や韓国という国が日本との外交問題で堂々と語るウソである。それは尖閣や竹島の領土問題であったり,慰安婦の問題であったりする。日本側が根拠や証拠を示しても相手はそもそも自分達の主張がウソだということを承知の上で強弁してくるのである。議論が成立するはずがない。それはそれらの国に「ウソをつくのは恥ずかしい」という価値観がそもそも教育の中で教えられないのか、あるいは国のトップが堂々とウソをつく人たちなのかということである。
オレは安倍晋三という総理大臣を評価している。だからこそ森友学園や加計学園という問題に関して、「ああ、確かに便宜ははかりましたよ」と開き直って欲しかったのである。加計学園の獣医学部は開校が決まった。二束三文の土地がゼニに化け、田舎に大学を誘致するというイナカモンドリームがかなうということはどういうことなのか。我々はその現実を見ることができるからだ。
かつての日本を支えた高度成長の残滓もなくなり、企業のトップがカスばかりになり、日本という国家がどんどん劣化していく中で政治家はどのように国益を考えるのかというのはなかなか難しいことだと思う。私利私欲しか考えない人間が増えすぎた。
オレは自分がこのまま時代遅れの頑固なジジイとなって、世の中の変化について行けずにまわりから「うっとおしい老人」と思われるようになるのだろうかとなんだかせつなくなる。とにかくウソは嫌いだ。政治家がゼニをごまかしたり企業がルールをごまかしたりしてる状況はなんとしても許せないのである。
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