2017年09月02日(土) |
一線を越えたのか越えてないのか? |
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今年の流行語大賞が「一線は越えてない」になる可能性は高い。今井絵理子議員の発言から話題になったが、こういう主張はいつも「本当は一線を越えている人間の言い訳」であることが多いのである。
天理市長が公務出張の時にホテルにデリヘル嬢を呼んでいた。自宅には絶対に呼べないだろうから公務出張の際にはいつも利用していたのだろう。こういう習慣は独身時代についたものと思われる。東大寺学園から東京大学という超エリートのささやかな楽しみがそうした行為であったのだろう。愛人がいればいたでまたスキャンダルになるだろうし、議員や首長になるということはなかなか大変なのである。バレないようにかつらでもかぶって変装して遊んだらよかったのにと少し同情するのだが、今回の報道を受けてかの市長の発言が「法に触れることはしていない!」だったので、今井絵理子議員との共通性をオレは発見してしまったのだ。
確かに疑われるような行為はしたが、一線は越えてないからそれほど悪くない。
これが今井絵理子議員と天理市長共通の認識なんだろう。そしてここで大切なのは二人ともかなり高い確率で「本当は一線は越えているけど、越えてないというウソの弁明をしている」ということなのである。
衆人環視の新幹線の中で手をつなぎ、ホテルの廊下を部屋に備え付けのガウン(たぶんその下は裸)で歩いてしまう今井絵理子議員が密室にイケメンの男性と二人きりでいて、一線を越えることを我慢できるわけはないとオレは思うし、天理市長の場合は相手をした女性が「強引に本番行為を求められたから5000円で応じた」と語っている。だから二人とも実は一線を越えていたわけである。
この「一線を越えたか越えてないのか」という話は実は文学の大きなテーマでもある。「伊勢物語」の第69段にある伊勢斎宮の話の中で、業平はなんと神に仕える処女であるはずの斎宮と2時間ほど一緒の部屋で過ごしているのである。もちろん伊勢物語の中では「話をしただけ」ということになっていて、業平は「斎宮と関係を持ってしまう」というタブーを侵すことはなかったということなんだが、業平ほどの色好みが2時間も何もしないでいるわけがないとオレは思ってしまうのである。また「尊卑分脈」には、その時に斎宮は一回の行為で妊娠してしまったということで、その子孫であるという高階氏が記載されている。ということはやっぱり一線を越えていたのである。
一線を越えたのか越えてないのか。オレはこの言い回しが好きだ。このごとをストレートに言わずにちょっとオブラートに包んだいい方だからだ。これを「ヤッたのか、ヤッてないのか?」と問い詰めるのは無粋というものだろう。「おまえら、ヤッたんか?」とぶしつけに訊くよりも「ところできみたちは一線を越えたのかな」と訊く方がスマートである。
これからあらゆる場面でオレはこの「一線を越える」というフレーズをみんなが使うべきだと思うのである。
女性を口説いてる男性が「いまからHしないか?」とストレートに言うのは風情がない。そういうときはわざと他のものに置き換えるのである。道路にひいてある白線を見て「ねえ、いまからこの一線を越えない?」と訊くのである。それは実際にジャンプして線を越える行動であると同時に、男女の関係になるという深い意味でもあるというまことに風情のある訊き方なのである。すばらしいのである。
この世の中には一線を越える人と越えない人がいる。人によってその一線の意味は違う。ある人はそれを「覚醒剤をやるかやらないか」という意味に使うだろうし、ある人はそれを「売春をするかしないか」という意味に使うだろう。このように一線を越えるというのは基本的に「人としていけない領域に踏み込む」という意味で使われることが普通なのである。
一線を越えたのか越えてないのか。まことに味わい深いフレーズである。オレはこういう日本語が好きだ。
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