2015年08月18日(火) |
『火垂るの墓』を批判的に鑑賞してみる |
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今年も終戦記念日が近づくと、テレビでスタジオジブリの映画『火垂るの墓』が上映された。オレはこの作品が苦手である。あまりにも悲しく、そしてやりきれなくなる。戦争の犠牲になる子どもを描いているという点ですぐれた反戦映画であることは間違いない。しかし、オレのような屈折した人間は、あえてその映画のストーリーに対して今回批判をしてみたいのである。
なぜ節子は栄養失調で死ぬことになったのか。あの時、清太は預金通帳を持っていたはずで、そこには母から託された7000円というまとまったゼニがあったのだ。親が海軍軍人で、たとえ家が焼けたにしてもそれだけのゼニがあるならば、叔母と交渉してもっといいものを喰わせるように要求できたのじゃないのか。叔母は清太の母の着物を食糧に換えて、それを全部着服するような悪人だったのだろうか。食べ盛りの子ども二人を突然家族に抱えたとはいえ、その増えた家族分の配給も受けることができたはずである。人々が生きるために作っていた隣組の組織のネットワークを勝手に抜け出したのは清太のわがままではなかったのか。清太がつまらない意地を張らずに叔母の庇護下にいれば、少なくとも節子を死なせることはなかったのじゃないかとオレには思えるのだ。妹の節子に満足に食わせられなかったのはすべて清太の責任である。
居候の身分でいること、頭を下げて食べ物をもらうということを拒否したのは、清太の父親が海軍軍人で、自分はエリートだという自意識があったからではないのか。周りを見下しているからこそ、彼は隣組の勤労奉仕などに参加することを拒否して本ばかり読んでゴロゴロしていたのじゃないか。働きもしないし、かといって学校に行って勉強するわけでもない。学校が空襲で焼けたことを「学校に行かなくてもいい」理由にしている。、そんな清太はいくら妹思いであっても典型的な「非国民」である。叔母の家の下宿人の神戸税関に勤める若者が勤労奉仕に積極的なのとは対照的だ。
しかし、清太の父の乗艦である重巡「摩耶」は、昭和19年のレイテ海戦で撃沈されているはずで、その戦死の知らせが届いてないことは実に奇妙である。一兵卒ではなくて海軍大尉ならば少なくとも普通は戦死公報が遺族の元に届けられるのではないのか。もっともそれは当時、軍事機密ということで敢えて伏せられたのかも知れないが、その部分にもオレは疑問を抱くのだ。清太が父の死を知るのは終戦後ということになっている。
8月15日の終戦を迎えるまで、国民はみな飢えていたが、そこにはまだ生存ギリギリの線でのモラルが存在した。餓死者が出るようになるのは終戦後の無秩序の中で弱肉強食になったからではないのか。
両親を失い、妹も失って生きる気力を亡くした清太は三宮駅に寝起きする戦災孤児の一人として死ぬ。その死が、あの時代の多くの他の死と比較してとりわけ悲惨なものであったとはオレは思わない。清太と同じように家族を失って孤児となった子どもは日本中に大勢いた。その子どもたちは必死で混乱の中を生き延びて、新たな家族を持ち、日本の復興を支える力となった。「清太、おまえは根性無しだ!」とオレはあえて言いたい。おまえはそこで生きることをあきらめてしまった弱者なんだと。
オレは映画「火垂るの墓」が本当に苦手だ。観ると必ず泣いてしまう。そしてこんな悲しい物語をどうして子どもにわざわざ見せるのかと悲しくなる。せっかく現代を幸せに生きている子どもたちに、どうしてこんな悲劇を見せるのか。どうしてあの悲惨な時代の記憶を受け継がせようとするのかと。
「火垂るの墓」は外国の人からはすぐれた反戦映画として理解されるだろう。おそらく海外の人達はオレのような屈折した見方を誰一人しないと思うし、この作品を戦争で幸福を奪われた兄妹の悲劇と受け止め、清太の責任など誰も考えないからである。オレはただのひねくれたオッサンである。
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