2015年03月29日(日) |
殺人自殺にどう向き合うか? |
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乗客乗員150人が死亡したドイツのLCC、ジャーマンウイングス機墜落事故は、副操縦士が意図的に行ったものだという。精神疾患を抱えた副操縦士が自殺をはかり、その道連れに乗客乗員が犠牲になったということである。ただ、このような事例は過去にも数件存在する。オレはそのような事例を「殺人自殺」や「拡大自殺」と呼びたい。さて、このような行動に対して社会はどのように対処すべきなのか。
たとえば無差別殺人を行うテロリストの中には「自殺する勇気がなかったので、死刑にしてもらいたかった」という動機を語る者がいる。これも「殺人自殺」の中に分類できるだろう。また日本にかつて多かった「一家心中」も、同様に我が子を道連れにした「殺人自殺」「拡大自殺」と分類できる。
人口の中に一定の比率で精神疾患を抱えた人達が存在し、またうつ病などの形で病を抱えたまま、ストレスを貯めつつ社会生活を営む多くの人々が存在する。その多くは衝動的行動に走ることもなく、社会の中で静かに過ごしているのだが、ひとたび今回の航空機事故のような事件が起きると、社会の精神疾患者に対する風当たりがきつくなってしまう。同じようなことをするのではないかという偏見の目で見られてしまうのだ。
今回の飛行機事故の賠償額は無制限だという。そして「故意の墜落」であるために親会社のルフトハンザはもはやどんな請求であっても支払うしかないという状況に追い込まれてしまうのだ。大企業であるか中小企業であるかは関係なく、企業はその社員の起こした事故はすべて「雇用者責任」という形で賠償義務を負うわけである。もちろんその企業に対して個人的に損害賠償を請求することは可能だが、そもそも支払えないような巨額の賠償を求めても意味がない。
事故で犠牲となった人達の遺族は、そのやり場のない怒りをどこに向ければいいのか。パイロットの体調管理がきちんとできていなかったということは過失なのか。しかしそもそも精神疾患の程度をどの程度外から把握可能なのか。社会はこうした病とどのように向き合えばいいのか。
日本では心神喪失者の行為は罰さないことになっている。また心神耗弱者の場合は罪が減じられる。それでは認知症による交通事故、高速道路逆走などの大事故はどのように考えればいいのか。認知症で自分が何をしてるかわかってない状況は心神喪失とどこが違うのか。オレにはもちろんわからない。
ただオレは、突然の飛行機事故で人生をいきなり断ち切られた多くの命を思う。なぜこんな理不尽なことでその生命を奪われないといけなかったのか。それも墜落・衝突の瞬間まで全く何も知らずにいたことを。
この世には、回避可能な悲劇と回避不可能な悲劇がある。たとえば地震や津波や噴火によって一瞬にしてその生命を奪われるというのは回避不可能だろう。しかし、今回の飛行機事故のような悲劇は、防げる可能性が皆無だったわけではない。
自動車の運転免許の取得を制限すれば事故はかなり減るだろう。高齢者の交通事故が多いということならば、70歳以上は運転禁止ということに法律で決めればそれだけでかなりの事故を回避することができる。しかし、自動車を必要とする多くの高齢者が生活に困ることになる。危険な人をすべて排除すればそれでOKなのか。危険と危険でない、正常と異常の線引きはどこにあるのか。それはいったい誰が判断するのか。
理不尽な形で幼い子を残虐に殺されても、加害者が精神疾患の場合は処罰されない。運転士が度重なるパワハラで心を病んで正常な運転ができなくなって大事故が起きても、会社のトップは責任を取らないし、裁判に訴えても無罪という結果が出る。しかし、自分にとって大切な存在を奪われた側はその悲しみをどこにぶつければいいのか。かつての「仇討ち」というのは、少なくとも残された側に「生きる目的」を与えてくれる一つの仕組みであったような気がするのだ。
航空会社の過当競争がLCCという存在を生み出し、コスト削減によって給与をカットされたパイロットたちはこれまで以上のストレスを抱えることとなった。今回の事故がそうした世の流れと無関係であるとはオレには思えないのである。
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