2015年03月03日(火) |
映画『ツォツィ』〜拳銃を捨てて、赤子を抱く |
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沢木耕太郎さんの映画エッセイ「銀の街から」を読んでいると、そこに紹介されている映画がとても観たくなる。そういうわけで、TSUTAYAで『ツォツィ』という映画のDVDを借りてきた。旧作だから3泊4日で100円である。
映画の舞台は南アフリカ、ヨハネスブルグである。世界一危険な街と言われるその街で、仲間からツォツィ(不良)と呼ばれるその若者は強盗や自動車盗を繰り返していた。しかし、ある日彼が奪った車の中には生後数ヶ月の赤ん坊がいた。彼はその赤ん坊を育てようとして悪戦苦闘する。スラムには土管で暮らす親に捨てられた子どもたちがいる。夫に逃げられた貧しい母子がいる。貧困と暴力の日常の中で、彼はいつのまにかある感情に目覚めていく。
自分が生きていくだけでも精一杯なのに、なぜ「赤ん坊」という厄介ごとを抱え込まないといけないのか。やがて彼は「乳児誘拐犯」として警察に追われることとなる。彼に残された選択肢は何か。彼はその赤ん坊をどうするのか。
まともな仕事もなく、教育も受けていないスラムの若者にとって、富にアクセスする方法というのは「犯罪」という手段で豊かな者たちから「奪う」しかないのである。奪った高級車は、わずかなゼニと引き換えに買い取り業者のものとなる。彼らの行為を「悪」として断罪することはたやすい。しかし、そのような社会をどうすれば変えられるのか。どうすればそのような犯罪はなくなるのか。犯罪者を射殺するだけでは何も解決しない。一方に圧倒的な貧困が存在し、一方に暴力的な豊かさがある。それがヨハネスブルグの現実である。
海外で日本人が誘拐されたり犯罪に巻き込まれたりする事件が起きると、「そんな危険な場所に行くからだ」という自己責任論が必ず出る。日本という圧倒的に治安のいい国に暮らしていれば、わざわざ危険な国を旅したり取材に出かけることは実に愚かな行為とされてしまうのだ。そうした「危険な国」「治安の悪い国」というのは、自分たちとは別の世界であって、そうした世界のことを知る必要もなく、そうした世界にアクセスする必要もないと多くの人は考える。
しかし、そこは同じこの地球上にまぎれもなく存在している世界なのである。人々が生きるために犯罪に手を染め、生命が虫けらのように軽く扱われている状況が今この瞬間も続いているのだ。
人は自分の生を選んで生まれてくることはできない。ヨハネスブルグのスラムに生まれてくることと、日本人として生まれてくることの間には絶望的な差が存在する。そこで安っぽいヒューマニズムを働かせて、「援助」という名の施しをその地で暮らす人々に与えることは何も変えない。アフリカにおける最大の産業とは、先進国からの援助を受け入れて分配することである。今のままの社会の仕組みが変わらない限り、この状況は未来永劫続くのである。
映画『ツォツィ』は、我々が営んでいる日常という平穏に対して突きつけられた反問の刃である。少なくとも我々にとって、事実を知るということは大切な義務ではないのか。何かをできるわけではない。変えられる方策を持つわけでもない。しかし、少なくとも同じこの世界で、必死に日々を生きている人々の存在を知ることは我々にとって必要なことではないのか。
南アフリカでは2010年にFIFAのワールドカップが開催された。しかしそれによって何かが変わったわけでもない。圧倒的な貧困と暴力は今も存在し続ける。
銀の街から
ツォツィ [DVD]
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