2015年01月17日(土) |
あれから20年〜 震災によって何が変わったのか |
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阪神大震災から20年経った。東京ではそうではないのかも知れないが、関西のテレビやラジオはこの時期になると必ず震災に関する特集が組まれる。あの震災で友人・知人を亡くした人は回りにいくらでもいる。多くの人命が失われたことは事実だ。
震災による犠牲者は年齢性別関係なく、あらゆる階層の人々の生命を等しく奪っていった。生まれてまもない幼な子も、一家の大黒柱の父親も、入学試験を控えた受験生も容赦なかった。
古い耐震基準で建てられた多くの木造住宅が全壊し、その下敷きになって圧死した多くの犠牲者があった。新築二ヶ月で全壊した家もあった。地震によって命を奪われたのではなく、安全ではなかった建物によって命を奪われたのだ。オレが経験した震度5〜6程度の揺れでさえあの時のオレは生きた心地がしなかったのだ。激しい揺れの直撃を受けた多くの人々が、気がついた時には崩れた家の下敷きになっていたのである。脆弱な構造の木造住宅の多くが凶器となったのである。
もちろんマンションのような集合住宅にも全壊、半壊のものが多かった。あのとき某ディベロッパーのマンションはほぼ壊滅状態だったため、今でもその業者は関西では全く人気がない。週刊誌の記事にはならなかったが、口コミで多くの人がそのウワサを共有したからである。
日本という地震国に住む以上、地震や津波という災害から逃れることはできない。だから常に起きた時のことを考える必要がある。地震が起きればたちまち崩壊して凶器と化すような脆弱な構造のマンションや住宅を販売する業者は未必の故意による殺人者であると言える。住宅の耐震性というものはあれから飛躍的に向上した。今、阪神間を同程度の地震が襲ったとしてもおそらく被害はかなり少なくなるだろう。あの震災で払った犠牲は大きかったが、そこから我々が多くのことを学んだのは事実なのだ。高速道路橋脚の耐震補強も進んだ。被害がゼロになることはないと思うが、少なくともリスクは大きく減少した。少なくともきちんと耐震構造になった住宅に居住する限り、家が崩壊して命を奪われるというリスクはほぼなくなったはずである。
しかし、あの震災で失われたものは人の命だけじゃない。震災による破壊はそれまで長い歴史の中で連綿と続いてきたその地域のコミュニティを破壊した。それまでの地縁から切り離されて仮設住宅に入居した人々の多くはもとどおりの地域や隣人に囲まれることなく、抽選の結果として遠くの市営住宅に入居したりしてちりぢりばらばらになった。
被害の大きかったJR長田駅周辺にあった小さな工場や商店の多くは、神戸市の手による再開発によってその地を追い出された。住民の中には住み慣れた土地を売却して他へ移り住む者も多く、新たに建てられたマンションには古い住民とは何の接点もない人達がやってきた。地震による破壊の後に発生したのは、神戸市という行政の手による「再開発」という名のコミュニティの破壊だった。なぜ「開発」する必要があったのか。どうして「復旧」ではダメだったのか。もとのままの街を取り戻すということをなぜ第一に考えてくれなかったのか。第二次大戦で破壊されたポーランドの首都、ワルシャワの旧市街が壁のひび割れに至るまで再建されたことと比較すると両者の意識の隔たりはあまりにも大きい。埋め立てた土地を売却して市の収入にしてきた神戸市にとっては、震災復興もまた一つの「地上げ」のチャンスだったのだ。
オレが生きてる間にもう一度大きな地震や災害に遭遇するのかどうかはわからない。ただ、もしもそうした災害に巻き込まれたらどうしたらいいのか。その時に何をするのが最善のことなのか。阪神大震災の時に起きたさまざまな出来事を知ることは、もしも自分が同じような事態に遭遇した時にどうすればいいのかということを示唆してくれる。あの時直ちに作業服に着替えて救援隊を組織し、周辺住民の救助に回った神戸商船大の学生たちの活躍があった。直ちに徒歩で2キロ離れた県庁に向かうこともせず、迎えの車が来るのをのんびりと自宅で待っていた貝原俊民という脳天気なオッサンが知事だった。一歩家から外に出れば自分の目で被害の大きさを知ることもできただろうし、災害要請を直ちに行うこともできただろう。目の前の出来事を理解していなかった知事の判断の遅さのために失われた多くの人命があったとオレは思っている。
あの時義侠心から原付バイクで救援物資を配った一人の作家は後に政治家となった。田中康夫さんである。彼の評価はさまざまだが、少なくともオレは貝原俊民よりもはるかに「人間として信頼に値する存在」だと思っている。
我々が今の平穏な生活を営むことができるのは、これまで多くの犠牲によってさまざまなことを学んできたからである。そのことを忘れてはならない。あの震災の時、家の下敷きになった人達を救ったのは、近所の住民や自衛隊やボランティアの学生たちだった。そして、救助が間に合わずに失われた命の前で多くの人々が涙を流した。その涙の意味を我々は理解しないといけない。
神戸震災日記 (新潮文庫)
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