2013年12月07日(土) |
書評『さようなら、オレンジ』〜岩城けい |
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『さようならコロンバス』はフィリップロスが書いたユダヤ系移民の家庭を描いた短編集である。だからこのよく似たタイトルを見たときにオレはすぐに昔読んだその作品を思いだしたのである。『さようなら、オレンジ』はオーストラリアで暮らすアフリカ系移民の物語である。
オレは以前にベトナム系難民の方々の日本語指導のお手伝いをしていたことがある。ボートピープルとして動乱の故国(南ベトナム)を捨てた方々は、元は軍人だったりアナウンサーだったりとインテリ階級の方々が多かった。たとえば今は八尾市でベトナム料理店を経営する男性は元は南ベトナム政府軍の軍人で、それゆえサイゴン陥落と共に故郷を追われる立場となったのだ。難民として来日した人たちには、愛する故郷であっても帰れないという理由がそれぞれにあった。
そのベトナムの方々にとって、これから日本人となって日本に帰化して暮らすという選択肢はどういう意味があったのだろうか。オレは今回の読書でそのことを改めて考えたのである。
『さようならオレンジ』の主人公は、アフリカ系移民のサリマである。彼女は夫と二人の子どもを連れて内戦の母国を捨ててやってきた。毎日スーパーでナイフを手にして肉をさばいている。言葉が不自由な彼女にはその仕事しか選択肢はなかったのだ。
サリマは英語学校に通い出す。そこで夫に従ってやってきた日本人女性、ハリネズミと出会う。生まれも育ちも全く異なった二人は、やがて不思議な友情を育てていくこととなる。
人は思考するときに必ず生まれ育った母国語で考えるはずだ。しかし、難民としてオーストラリアにやってきたサリマにとって、その母国語というのはもう二度と使う可能性のない言葉である。最初は幼かった子どもたちは次第に英語しかしゃべれないようになっていく。小学校は難民の子の受け入れに積極的で、教師たちはとても熱心だ。英語が上達すると子どもは、その英語を満足に話せない自分の母親を馬鹿だと思うようになる。言葉を上手に操れるかどうかは人をはかる簡単なモノサシとして作用するのである。親子のコミュニケーションが母国語でとれなくなって、第二の言語として習得しようとしている英語でしかできないということはどんなふうに親子関係を変化させてしまうのだろうか。
昔ベストセラーになった小松左京の『日本沈没』という小説を最後まで読んだときにオレは考えた。故国を完全に失った日本人たちは世界に散らばってこれからどんなふうに生きていくるのだろうか。ユダヤ人のように世界を流浪し、最後に自分たちにとっての「約束の地」にたどりつくのだろうか。どこかの国に「新・日本国」を建国してそこで生きていくのだろうか。地球上で誰も住んでないような土地というのはもともと居住に適さないような砂漠や高山だけであり、新たな国を作ろうとすればイスラエルのように元の住民と必ず衝突する。
そうなると必然的に他国の社会規範を受け入れ、そこに同化して生きるという選択肢を多くの人々が選ぶしかないのである。世界各国で暮らすユダヤ人たちがそうしているように。もしもオレが故国を失ったとしたらどうなるのか。
「自分ならどうするのか」文学作品を読むときに感情移入するもっとも単純な方法は自分がその作品の主人公になったつもりで読むことである。しかし、それがおよそ想定したことのない事態であった時にはその手法はかなりの困難を伴う。カフカの「変身」を読むときに自分が巨大な毒虫になってることなどどうやって想像するのか。
サリマは壁にぶつかるごとに多くの涙を流し、悪戦苦闘しながらも徐々に英語力を上達させ、そして異国の地で生きる力をしっかりと身につけていく。恵まれた環境下でぬくぬくと多くの庇護を受けて暮らす我々には想像もつかない困難さを、一つ一つ彼女は乗り越えていく。読んでいるうちにいつしか、彼女の幸せを必死で願う自分に気がつく。ほら、やっぱりきちっと感情移入していたのである。
さようなら、オレンジ (単行本)
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