2013年10月01日(火) |
大阪の公募校長の謎 |
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大阪市の公募校長に不祥事が続発している。オレが不思議なのはこの公募校長がかなりの競争倍率を勝ち抜いた選ばれた方たちだったということになる。928人の候補者の中から選ばれた11人なのだ。その競争を勝ち抜いたということは、選ばれなかった方々よりも校長としての資質があると判定されたからである。それなのにもう半数以上の6人がセクハラなどで「問題ありの校長」ということになってしまったのである。
そしてこの公募で選に漏れて選ばれなかった方の中に校長としての立派な資質をお持ちの方がいたのならば、選考そのものに問題があるということになる。つまり「校長にすべき人を落とし、校長にしてはいけない人物をわざわざ選んでしまった」ということである。
セクハラ、パワハラを行う人物には共通している個性がある。傲慢で自己中心的、あるいは歪んだエリート意識の持ち主であったり、どこか屈折した劣等感を誰かを支配することで満たそうとする部分である。長年つきあっているとそういう人物は次第にわかってくるわけだが、一度の面接でそれを見抜くのは難しい。だから少なくとも複数校での2年以上の試用期間を経て校長に任用すべきであり、今回の校長任用はやや拙速に過ぎたのではないかという気もするのである。もちろん、公募校長の中には立派に職務を果たしてがんばっていて信頼を勝ち得ている方もいるわけで、公募制度自体が悪いのではない。学校にさまざまなこれまでの伝統的教育観以外の価値観を導入することは悪いことではない。ただそれにしても928人から選んだ11人中実に6人が問題ありだったという。誰がその6人を選んだのかということがオレは気になるのだ。最終的にその方々を採用する決断を下したのはいったい誰だったのか。少なくとも任命者がその方々の本質を見抜けなかったということは確かなのである。
オレは教員という職業に就いているが、教科を教えることと校長職に求められる能力は決定的に異なると思っている。だからむしろ公募校長には賛成だ。ただ、その候補者は教員の中から選んで欲しいのである。現場を知る教員の中で「こんな学校をぜひとも作りたい」という具体的なプランを持ち、それを困難を越えて成し遂げるだけの情熱のある方を校長にすべきなのだ。かくいうオレも学校の理想像を持っている一人である。しかし自分が校長になって・・・とまでは思わない。自分一人で教える私塾ならまだしも、異なった価値観を持つ大勢の教員をまとめることはきわめて困難なことであり、オレのようなただの罵倒野郎のオッサンにはとても務まらないのである。
大阪府の公立高校の学区制は来春に撤廃され、大阪府下から誰もが公立トップの北野高校を受験できるようになる。大阪府は狭いといっても岬町や千早赤阪村から北野高校に通うにはかなり時間がかかる。それでも優秀な生徒は長時間通学をものともせずに集まるだろう。それによって公立高校全体からの難関大学進学者が増えるかというと答えは「否」である。理由は簡単だ。優秀な生徒を特定の一校に囲い込んでしまえば、彼らが普通の生徒や、やや優秀な生徒との接点を失い、他の生徒によい影響を及ぼすという重要な役割を失うからである。トップ校以外は必ず凋落してしまうだろう。
大阪市の中学の公募校長の中に、企業のような成果主義を唱え北野高校の合格者数を増やすことを金科玉条とする方が任命されることをオレは望んではいない。そこで学ぶ子どもたちが幸せになれるとは思えないからである。人間にはさまざまな資質がある。受験勉強一辺倒ではバランスよく人を伸ばすことはできない。そうしたことをオレは感じるのだ。公募によって選ばれた校長先生がどの程度それを理解されてるのだろうか。人を育てるということは工業製品を送り出すこととは全く違うのである。学校は工場と違って完成品を世に送り出すところではない。学校が卒業させる生徒は常に「発展途上」の存在なのである。彼らを徐々に完成させていくのは地域社会であり、就職先の企業であり、会社で出くわす理不尽な上司なのである。
オレがもっとも嬉しいのは卒業生が立派になって母校を訪れてくれた時である。卒業時よりもはるかに成長したその姿を頼もしく思い、オレのようなオッサンのことを忘れずにいてくれたことに感謝したくなる。学校では成績があまりよくなかったのに、誰もがその名を知る大企業で活躍するようになった人もいる。学校が単なる成果主義に走ってしまえば、こうした人間的なつながりが失われることは確かである。
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