2013年08月13日(火) |
日本一暑い街はどこだ? |
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オレが子どもの頃、暑さ日本一の40度超えというのはかなり昔の記録であり、どんなに暑くても日本の夏は35度くらいだった。それでも十分に暑くて夏は苦しんだものである。それがいつのまにか35度をこえるのが普通になり、40度の壁もあっさりと突破されてしまった。なんだか隔世の感があるのである。そして40度以上の世界のハイレベルなバトルが起きたのである。
日本一暑い街はどこか。この不名誉な称号を賭けて争っている3つの市があった。埼玉県熊谷市(以前の日本記録40.9℃を誇る街)、岐阜県多治見市(同じく40.9℃で最高気温を争う街)、群馬県館林市(我が市が日本一暑いと宣伝した街)の3つである。はっきり言ってそんな暑い街に住みたくないのである。なんでそんなことを自慢し合うのか。その不名誉を脱出すべく、街の緑を増やすとか工夫すべきである。市民こぞってマゾというわけでもないだろう。
この3市が暑いのは瞬間最大風速的なものではなく、とにかく恒常的に暑かったのである。たとえば2010年の猛暑日(最高気温35度以上)の日数は
館林市 41日
熊谷市 41日
多治見市 38日
となっている。まさにガチバトルなのである。
2011年の猛暑日数は2010年よりも少し減ったがそれでも
館林市 30日
多治見市 27日
熊谷市 26日
もあったのだ。ところがこの3市の戦いに新たなライバルが加わったのである。高知県四万十市がこの暑さバトルの新たなライバルとして浮上してきたのだ。
暑いのに変わりない…熊谷「日本一暑い街」返上
高知県四万十市で12日、最高気温が41・0度に達し、2007年に埼玉県熊谷市で記録した40・9度を上回り、国内の観測史上最高気温を記録した。
「日本一暑い街」の名を返上することになった熊谷市民らは「暑いことに変わりはない」「不名誉なイメージが払拭され、むしろ良かった」など、様々な感想を漏らした。
同市は08年度から、「暑さ日本一」から「暑さ対策日本一」を目指すプロジェクトを開始。公共施設に水分補給ができる場所を設けたり、水で濡らすと冷たくなるクールスカーフを高齢者と小学生に無料配布したりするなどの対策を取ってきた。
富岡清市長は「記録は更新されたが、暑さを競っているわけではない。今後とも市民の健康を第一に様々な暑さ対策に取り組むとともに『あつさ』をキーワードに事業者や市民団体による地域振興に向けた取り組みを支援していく」というコメントを発表した。暑さ対策に取り組んできた熊谷青年会議所の岡部太一理事長は「1番だろうが2番だろうが暑いことに変わりはなく、暑さ対策を続ける。暑いから住みたくないというマイナスのイメージがなくなり、むしろ良かったのでは」と話した。
暑さを逆手にとって激辛料理を提供する「くま辛」実行委員会の大関暁夫事務局長は「熊谷が注目されなくなる点は少々残念だが、日本一暑いのは名誉なことではない。暑さだけに頼らず、熊谷の魅力を考えるきっかけになるだろう」と前向きに捉えている。
(2013年8月13日09時03分 読売新聞)
この記事の中にある「不名誉なイメージが払拭され、むしろ良かった」という部分にオレはちょっと疑問を感じたのである。暑さをイメージしたゆるキャラや、暑いときに食べる名物を売り出すという戦略でこれまでその猛暑を利用していたからである。つまりその不名誉さに正面から向き合ってきた市民の努力を根底から否定する許せない発言だと感じたからだ。
何事も日本一はいいことである。負けずにもっと暑くなることを目指さないといけない。どうすればもっと街が暑くなるかを考えてどんどん実行して、暑さ日本一を取り戻さないといけないのである。そのためには緑化などもってのほかである。打ち水も禁止である。どうすれば街がもっと暑くなるのかを工夫して、市民がアイデアを出し合って暑さ日本一を奪回しないといけないのだ。
オレは暑さが苦手である。京都で暮らした4年間、夏になるといつもオレは京都の暑さを恐れて逃亡していた。信州や北海道で過ごしていたのである。だから大学生の4年間は祇園祭りも知らないし、大文字の送り火もみたことなかったのである。オレにとっての暑さ対策は「逃げ」の一手だったのだ。
今はエアコンも安くなったし、どんなに外が暑くてもエアコンを効かせた室内にいれば熱中症で倒れることはない。図書館とかイオンモールとか、いくらでも街には涼しい場所がある。そんな時代に「暑さ日本一」を競い合うことは逆にすがすがしいとオレは思うのである。その暑い街で耐えていることに市民は誇りを持つべきである。でもオレは絶対にそんな街には住みたくないのである。
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