2013年01月01日(火) |
日本再生への道とは何か? |
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どうすればかつての日本は取り戻せるのか。こんなふうに書くとまるでかつての日本がよかったようであるが、安倍晋三が「日本を取り戻す」と語ってるその日本というのはどの時点の日本をさすのだろうか。バブル経済に沸き返る日本なのか、高度成長期の「所得倍増」の日本なのか、それをあいまいにしたまま「取り戻す」と言われても困るのである。
では、オレがもっとも立て直さないといけないと考えてるの何かというと、やはり「教育」である。
ニートが増えて就職浪人が街にあふれかえるようになり、駅前商店街がシャッター通りとなってしまったのはなぜか。考えてもみろ。商売をしていた親たちはたいてい自分の息子や同じように店を継ぐことなど考えずにサラリーマンとして働くことを望んで大学に進学させたじゃないか。つまりそれは親たちが望んだ結果なのである。
では「とにかくサラリーマンにしたい。肉体労働させたくない」と馬鹿な息子まで大学に行かせればどうなったか。就職できずにニートになったり、ブラック企業で使い捨てられたりしているじゃないか。これらはすべて教育政策の過ちなのである。昭和50年代、高校は「士農工商」ではなくて「普商工農」と呼ばれて普通科以外の大学進学を目標としないコースが一段下に見られ、普通科ばかり新設され、その受け皿として大学も増えまくったことが現在の大学の質の低下や高校での学級崩壊、中退者の増加につながったのじゃないか。
すべての若者が大学を出てホワイトカラーになることを目指す必要など全くないし、それだけでは社会は機能しない。さまざまな職業があってそれらの専門技能を身につけることで誰もが社会に必要な存在となれるのである。電車が安全に運行できるのは保線作業が行われているからであり、アマゾンで購入した商品がすぐに届くのは膨大な人が流通の現場で働いているからである。そうした社会の便利さを支えるためにこの世には多くの職業が存在していて、どれ一つとして不要なものはない。
大学は増えすぎてしまった。大学進学率を20%に抑え、そのうちの国公立大学の定員を5%程度として、国公立大学に進学できる者は18歳のうちの20人に一人くらいにしていれば地方の国立大学のレベルを保つことができたのだ。学費も上がりすぎである。授業料が年間50万をこえれば学費が安いから地方の国立大学に行くという選択肢は完全に奪われる。家から通える地元の私立大学の方が結果的に安くつくからである。そうして地方の国立大学のレベルはどんどん下がってしまった。これを立て直す方法は一つしかない。それはすべての国立大学の授業料を無償化することである。そうすれば貧しい人間や奨学金の借金を背負いたくない人間にとって、地方の国立大学に行くメリットが発生するからだ。
すると必ず「東大や京大に入る学生の家庭は裕福だから無償にしてやる必要はない」などとほざく馬鹿が出てくる。あほか。裕福な家庭の子弟がみんな東大や京大に入れるのか。否である。塾や予備校にゼニを使っても誰もが偏差値が上がるわけではない。やはり本人の努力による部分が大きいのだ。今の時代はなんでもゼニで買えると言われる。美男美女とデートする権利だってゼニで売買されるこの世の中で、唯一ゼニだけでは買えないのが大学入学資格なのである。だからこそ価値があるのだ。
親が例えワーキングプアで年収200万くらいの家に生まれても、生活保護受給世帯であっても、ちゃんと授業料の安い国立大学に入れば医師にも弁護士にも裁判官にもなれるというのがかつての日本が持っていた「ジャパニーズ・ドリーム」じゃなかったか。今の日本がダメなのはそうした可能性が失われてしまい、貧富の差がそのまま受験生の偏差値の差になってしまっているということなのだ。なんでこんなことになってしまったのか。
なぜ塾が必要なのか。それは公立の小中学校が学級崩壊で学びの場ではなくなっているからである。まともに勉強したい者は学校では勉強できないので塾に行くしかないのである。その結果として、塾に行く余裕のある生徒とそうでない生徒との間に学力差が生まれてしまう。もしも学級崩壊が起きずに小中学校がちゃんと機能していればそこで学力を身につけることができたはずだし、中高一貫の私学に進まなくても、公立の高校から難関校に進学できるはずである。
被害者を自殺にまで追いこむような悲惨ないじめ事件が起きるのかなぜか。教師がなぜ現場のいじめに気付かないのか。オレは不思議でしかたがないのである。ただ、それを解決するのはもっと小中学校の先生に有能な人材を配置するしかない。それを養成するのは国立大学の教育学部の仕事である。教員養成のカリキュラムの中で、いじめ対策にどの程度の時間が費やされているのだろうか。オレはそれが知りたいのだ。
戦前の日本では大学進学のゼニのない貧しい人間は、軍人になるか教師になるかという選択だった。それは陸軍士官学校や海軍兵学校、そして師範学校が無償だったからである。貧しい農家に生まれた野口英世が医師になれたのは金持ちのスポンサーがついたからであり、医師になれるのは普通は金持ちの子弟だけだったのだ。
すべての国公立大学を無償化したところで、道路やダムや新幹線や原発の地元対策にばらまくゼニに比べれば鼻くそみたいな金額である。国公立大学の学生が日本中で50万人だとすればその授業料を年間50万と仮定して、それを全部タダにしてもたった2500億円かかるだけである。費用対効果ということを考えた時、わずかな金額で劇的な効果を生み出すこのような政策こそ導入する価値があるのだ。
崩壊してしまった教育を立て直すのは簡単なことではない。それこそ国家百年の計が求められるのだ。公共の場所でマナーを守ること。厳粛な式典で騒がないこと。荒れる成人式を見ればそれが失われつつあることがわかる。それが普通であってはならないのである。しかし、だからこそ長期的な視野に立って教育の再生をはかるしかないのである。一年も経たないうちにくるくると文部科学大臣が替わるようでは何の政策も方針も示せないということもまた事実なのだが。
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