2012年01月01日(日) |
よりよく学ぶということ |
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オレは学校の成績が悪い人間が苦手である。いや、もっと正確に言うと、成績の悪さを自己責任としてとらえられない人間が苦手なのだ。たとえばオレが教えている古典の授業で全く予習もせず、もちろん授業中も居眠りしたり隣とおしゃべりしたりして全く勉強しないでその結果試験も欠点をとるような生徒から「どうすれば古典の点数が上がりますか?」と質問されることがある。「おまえはアホか!」と思うだけである。
しかし、今の日本の多くの学校は、オレから見れば「おまえはアホか?」と思うような生徒が普通の存在になってるのだ。全く努力しないか、努力の方向が全く間違ってるのに「世の中には勉強のコツというものがあって、それを知ればスイスイと成績が上がるし、それを教えてくれる神のような教師がいる」と信じ込んでいるのである。だから彼らは自分の成績の悪さをすべて教師の無能さのせいだと思っている。このような考えは学校現場をよく知らない政治家にも流行していて、学校選択制で競争させれば生徒の学力が伸びると思ってる連中にもその信奉者がいる。
そうした成績の悪い生徒たちの特徴は、とにかく受け身であることである。ただ黒板に書いてあることをノートに写し、先生の話を漫然と聞いていればそれで勉強をしたつもりになっているのである。何十時間も、何百時間もそうやって過ごしているわけだが、そのほとんどすべてが時間の無駄遣いであることに気がついていない。日本の学校教育の決定的な誤りは、こういう愚衆をデフォルトにしてしまったことにあるのだ。
浪人生が予備校に通うのに年間で何十万も支払うことや、子どもが塾に通うのに毎月何万も払うことも実に馬鹿馬鹿しいことである。勉強というのはすでに体系的にまとめてある教科書や参考書に書かれたことをちゃんと読めばそれで理解できるはずであり、理解できたかどうかは問題集を解けばすぐに確かめられるのである。その理解のしかたを聞くためにゼニを払うのは無駄そのものであって、参考書や問題集にかかる本代だけなら本当にわずかな出費で済むのである。
ただ、学ぶというのは時間が掛かることだ。膨大な時間を掛けることを厭わずに取り組まないと成果は生まれないのである。人が5時間掛かって理解することを5分でできるような天才は滅多にいないし、そもそもそういう天才はより高度な学びの世界に入っていくだろうからやはり理解には多くの時間を費やすことになる。
高校受験の時、オレは英語や数学の割と分厚い問題集に取り組んでいて、そこに出ている問題はすべて完璧に解けるようになろうとした。完璧を目指すというのは、その中にある「解けない問題」というのをつぶしていく作業だったのだ。それは大学受験でも同じだった。手持ちの問題集をやり尽くした後は書店で問題集を立ち読みして解けない問題を発見し、考えてそれが解けるようになる・・・ということの繰り返しだった。大学の赤本が出るようになると、今度はそこにある過去問をすべて解けるようになるまで取り組むだけである。もしも一問でも解けない問題が残ってるならば、自分の勉強がまだ足りないということだと思った。
人はどこまで「受け身の勉強」でついていけるのだろうか。オレの場合は小学生の頃までだった。高校受験となると、授業で理解したことだけでは不十分で、自分で問題集や参考書をやり込まないと無理だった。大学受験となるとなおさらだ。特にオレは英語が苦手だった。授業中の50分間で習ったことをすべて理解してしまう自信がなくて、家でちゃんと辞書を使って予習してそこで完璧に訳せるようになってから授業を受けた。数学や理科も習う前に先に教科書の例題が解けるようになっておいて、その上で「ここを先生はどんなふうに説明するのだろう」というとらえ方で授業を聞いた。現代文や古典は得意だったし、漢文も母に買ってもらった中国の古典関係の本で先に知ってる知識が多かったので楽しんで授業を受けることができた。その時にわかったのだ。よりよく学ぶためには待っていてはいけない。こちらから対象を迎え撃たないといけないのだ。ちゃんと予習しないといけないのだ。先制攻撃が大事なのである。
今年ももうすぐ大学入試センター試験がある。まだ高校1年生だと、センター試験が2年先だからまだ興味を持たなくてもいいし、自信を失いたくないから問題を見ないという生徒がいる。ただ問題が解けないくらいで失われるようなそんな脆弱な自信なんてものは逆に学びの障害である。くだらないプライドを捨てて、己の無知を悟らなければならない。2年先に受ける予定のセンター試験を今先取りして受けることで、自分の現在の実力と志望校に入るために必要な得点にどれだけのギャップがあるかを知ることができる。それを2年間で埋めればいいのである。
ちまたには誰でも入学できるFランク大学が溢れ、そこにはおよそ受験勉強とは無縁のお気楽な大学生たちがいる。「愚衆」に迎合したそうした社会システムに対してオレはただ吐き気を催すだけだ。なぜ大学という場所をここまで陳腐化させてしまったのか。なぜ大学教育を「きちっと努力したものだけがアクセスする資格のある特別な世界」のままで残せなかったのか。
よりよく学ぶということを実践し、その努力をきちっと積み重ねたものだけに得られる果実、それが大学教育であるとオレは思いたいのである。
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