2011年08月26日(金) |
暴力団との関わりはどこまで許されるのか? |
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島田紳助が暴力団との関わりを理由に引退に追いこまれた。暴力団関係者とメールを交換したり一緒に写真を撮ったいという「親密な交際」が今回問題とされたわけだが、暴力団との関わりが有れば一切いけないのだろうか。暴力団関係者といえども市民生活を営んでいるわけで、一般人との関わりを必ず持つわけである。ところが一般人の側には「暴力団関係者と関わってはいけない」というルールが存在する。そのあたりにオレは大きな矛盾があると思うのだ。
映画の世界には「仁義なき戦い」や「極道の妻たち」など、ヤクザを主人公にした作品が多い。これらの映画をリアルに作るには必ず暴力団関係者の協力が必要だと思うのだ。そうでないとあそこまでリアルに作ることはできない。そして芸能人と暴力団関係者との関わりを禁じておきながら、岩下志麻が組長の妻を演じるのはOKというのは矛盾していないか。一方で忌むべきものとして排除しながら、もう一方で美しい任侠道の世界として映画にしているのはダブルスタンダードではないのか。
たとえば親が暴力団関係者だった場合はどうなるのか。自分の両親が暴力団関係者だったとして、努力して野球に打ち込んで甲子園に出るようになった。そしてプロ野球入りした。そのときに自分の親と頻繁にメールをやりとりしていたとする。これは「暴力団関係者とのメールのやりとり」になるのか。有名なスポーツ選手とか芸能人の中に「親が実はヤクザ」というのは何人もいるのである。酒井法子もそうだったじゃないか。その場合は問題ないのか。いったいどこまでがグレーゾーンでどこからがいけないのか。
暴力団関係者はベンツに乗る。そのベンツをヤナセで買うとする。するとヤナセの客には暴力団関係者が大勢いることになるし、ヤナセが「暴力団には売りません」というわけにもいかないだろう。客を差別して「あなたはヤクザだから売りません!」というわけにもいかないのである。自動車ディーラーが客を選んで「売る」「売らない」と判断することなどないとオレは思うのだ。もっともヤナセの方に聞いてみたわけではないのだが。
暴力団関係者が個人的にお気に入りにしているレストランなどもあるかも知れない。そこに頻繁に出入りしているからといって、その店が暴力団との関わりが深いということで問題視されるだろうか。暴力団構成員が携帯電話をまとめ買いしたとする。その携帯電話を売った店は処罰されるのか。暴力団関係者が慰安旅行したとする。その慰安旅行のバスを出した会社は問題視されるのか。申し込むときに「暴力団です!」とは名乗らないだろう。実際に行ってみてはじめて客たちの異様な雰囲気に気が付くのである。そのときに「やっぱり引き受けられません」というわけにもいかないだろう。
しかし、暴力団関係者がホテルでパーティーを開こうとすると拒否されるのである。申し込み段階で一般人の名前で申し込んでバレないようにと工夫してもバレれば一方的にキャンセルさせられるのだ。ここで大事なのは「暴力団員にも市民としての生活が存在する」ということなのだ。暴力団関係者にも娘がいたり息子がいたりして、その結婚式があれば披露宴もするだろう。ところが列席者はみんな組関係者だったりするわけだ。その場合はどうなるのか。社会に暴力団というものがれっきとして存在していながら、その集団との関わりがあってはならないことという建前が存在する。
たとえば学校はどうか。親が暴力団構成員だからといって入学を拒否するわけにはいかない。しかし、実際に入学させれば登下校は送迎つきの黒塗りのベンツだったりするかも知れない。それを「他の生徒と同じように通わせて下さい!」と学校側は主張できるだろうか。もしも登下校の最中に組長の娘さんが敵対組織に拉致されたらどうするのか。そうなると登下校に護衛が付くのも仕方ないのである。少なくとも「親が暴力団関係者」という理由で学校は入学を拒むわけにはいかにと思うのだ。教育を受ける権利というのは基本的人権であり、それは親が暴力団組員であっても全く関係がないのである。だからオレが勤務する学校に暴力団関係者が入学してきて、たまたまオレのクラスに入ってくれば場合によってはオレは暴力団の組長と頻繁に電話で話したりメールをやりとりすることになってしまうのである。それは何か問題があるのだろうか。
我が子が幼稚園に入園した。運動会のビデオを撮りたい。それで見に行くと誰から見てもお父さんは「その筋の人」なのである。みんながビビる。園長先生は「どうかお引き取り下さい」と頼むかも知れない。しかし、親が我が子の晴れ姿を見たいという気持ちをどうして拒否できるのか。
暴力団の構成員、準構成員の数は10万人近くいるらしい。人口比でいうと1200人に一人くらいが暴力団関係者であるということになる。日本にはそれだけ大勢のヤクザがいるのだ。だからかなり多くの人が自分の友人の中に一人くらいは暴力団関係者がいるという計算になる。携帯電話に登録された電話番号やアドレス帳の中に暴力団関係者がいればそれだけで「親密な交際」となるのだろうか。盛り場で意気投合して一緒に飲んで、酒をおごってもらった見ず知らず方が暴力団関係者ならどうなるのか。毎日自分の店に買いに来てきれるお客さんが暴力団関係者ならどうか。
これだけ街に多くの暴力団関係者が存在するのに、公的な立場にある人や芸能人やスポーツ選手は関わってはならないという建前がある。それはどう考えても無理ではないのか。そして職業に貴賤なし、人類皆平等という博愛主義の視点に立てば、暴力団を排除すること自体が間違ってるのではないか。
そんな主張をすると、いやいや暴力団はその存在自体が反社会的なものであり、そのシノギというのはたいてい犯罪行為に関わってるものだから撲滅しないといけないのですよと言われる。そうやって組を解散に追いこんだとして、失業した暴力団員は生活保護を受けていたりする。北九州や筑豊の方に行くとそういう方々が異常に多いのである。自分で稼いで暮らしている状態のヤクザを失業させて生活保護で食わせれば行政コストがかかるのである。このようなパラドックスをどう解決すればいいのか。
一般人であるオレは幸いなことに暴力団関係者と無関係なところで仕事をしている。しかしオレの公立高校時代の教え子の中にはたまたまヤクザになってしまったものもいる。もしもそういう教え子と道頓堀のところでばったりと出会ったとしたら、きっと彼は「センセイ、久しぶりですね!」と声を掛けてくるだろう。オレも「おう、久しぶりやな。元気か!」と返事するだろう。それは親密な交際と十分誤解される行為である。もしもその場面の写真を誰かがこっそりと撮っていればオレは「暴力団と関係のある教師」ということでクビにされるかも知れない。そういう可能性が100%ないとは言えないのだ。
暴力団関係者と関わってはならないというルールは日本社会ではしょせん建前に過ぎず、いつも恣意的に運用されているのである。どんなときにそのルールが適用されるのか。ものごとの本質はいつも語られないところに存在するのである。
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