2011年08月23日(火) |
子ども手当の廃止は残念なのである |
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日銀が一生懸命に金融緩和しようとしても全く効果が上がらないのはなぜか。その理由を説明するのは簡単である。みんなお金など欲しくないからだ。いくら低金利で貸してくれるといっても、そもそもゼニがいらないのである。結局大量のゼニが使われないままに日銀や銀行の金庫に積み上げられているだけなのだ。みんながお腹をすかせてバナナが欲しいときにバナナを配れば争って奪い合うわけだが、みんながお腹一杯の時に配られたバナナはそのまま放置されて腐ってしまう。そのバナナにあたるのがゼニである。みんながいらないのに配りようがないのである。
企業は銀行からゼニを借りて何に使うのか。新しく工場を建てたり設備投資して機械を新しくしたりして生産拡大に備えるためである。しかし、少子高齢化でこれから需要がどんどん減少するとわかっていて誰が設備投資などするだろうか。不要な工場を借金して建てる必要などどこにもないのである。いくら日銀が金融緩和しても無駄だ。企業は無駄なゼニは使わない。ましてその投資がマイナスのリターンをもたらすようなことなどするわけがない。
だったらどうすればいいのか。ゼニが必要な状況をどうやって作ればいいのか。かつてバブルの頃、どんどん土地価格を高騰させ、その土地を買うためにゼニを銀行が貸しまくり、ますます土地価格が上昇した。買った土地が何倍にも値上がりすれば資産はどんどん増える。資産が増えれば新たな土地を買うための資金を引き出す担保になる。その錬金術が有効に働くためには土地価格を永遠に値上がりさせ続ける必要があった。ところが橋本龍太郎の馬鹿は不動産投資に使えるゼニを制限して土地価格の高騰を抑えようとした。彼は経済学というものが全くわかっていないとてつもない馬鹿宰相であった。土地価格が下がれば、銀行が融資したゼニは担保割れとなり、不良債権化する。永遠にゆるやかな右肩上がりの成長を実現できれば、国家の抱えた巨額の借金も年金問題もみんな解決していたのだ。それから後、今に至るまでの歴史がいわゆる「失われた20年」である。
銀行がいくらゼニを貸したくても、企業が借りてくれない。だったら住宅ローンに貸そうとしても、もはや家や土地は余りつつあるという状況だ。銀行のシノギもこのままでは危なくなってくるのである。すべての元凶は「少子高齢化」による社会の縮小化だったのだ。
今、ゼニが一番かかる事業は「子育て」である。だから「子育て」にゼニをじゃんじゃん使わせることがもっとも有効で経済効果の高い公共事業なのである。オレは「子ども手当」の意味をそんなふうに受け止めていた。子供を持たない夫婦の場合は全くリターンがないわけだが、オレは「子育て」=「市民の義務」みたいなものだと思っている。そして子育てしない人がその分税金をたくさんふんだくられるのは当然だと思うのだ。
子ども手当の財源など、全部借金でやればよかったのだ。国債をどんどん発行して日銀にみんな引き受けさせ、そうして得た資金を子ども手当という形で親たちにばらまいたらそれは着実に消費に直結する。
子ども手当の財源のために国債を際限なく発行すれば、結果的に日本の信用格付けを下げさせ、円安につながる。それは輸出産業が経済を支えている日本にとって都合がいいことだ。また、子ども手当の効果で子どもが実際に増えるならばそれは少子高齢化という直面した問題を解決するきっかけとなるだろう。
みみっちいことを言わずに子ども一人あたり月5万とか10万とかをどーんと支給して、そのお金をじゃんじゃん使ってもらえばよかったのである。それがもっとも有効な景気刺激策になっただろう。ダムを造るとか河口堰を造るという環境破壊型の公共事業で景気対策をするのではなくて、子ども手当というゼニをバラ撒くという景気対策をやればよかったのだ。投資の効果は何倍にもなって返ってくる。「手当があるから後一人子どもを増やそう!」と多くの親たちが思って子作りに励めば、そうして生まれた子どもたちが将来の納税者となり、年金掛け金を払ってくれて貴重なリターンをもたらすはずだった。子ども手当というのは国家的規模の「投資」だったのである。その意味がどうやら政治家たちはわかっていなかったようだ。借金をしながらどんどん子ども手当をバラ撒けば、それが国家100年の計となったのである。
民主党の政策の中で唯一オレが支持していた「子ども手当」を失った今、オレは民主党の存在に何の意味も感じられなくなった。次の選挙で民主党は大敗するだろう。それとも選挙前にまたこの子ども手当を復活させるのだろうか。
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