2011年04月20日(水) |
江戸時代の方が防災感覚がはるかに上だった! |
携帯用URL
| |
|
どうかお読みになる前に←応援のクリックをお願いします! m(_ _)m
日本は昔から自然災害の多い国だった。地震や津波だけではない。噴火、台風など多くの災害に見舞われてきた。武田信玄は領民と領土の生産力を守るための治水工事に力を入れた。そのときに築かれた堤防は「信玄堤」と呼ばれて今でも残っている。しかし、そうした伝統はいつのまにか失われてしまった。我々は災害に対する備えを忘れてしまい、危険な地域にも街を造り、家を建て、多くの人々が暮らすようになっていった。
江戸時代に仙台平野を貫ぬいていた街道は、海岸からかなり内陸よりに入ったところを通っていた。なぜそこに街道や宿場町を置いたのか。ちゃんと意味があったのだ。江戸時代の人々は数百年おきに大津波が来ることを知っていて、その津波の来ないところに町を造っていたのである。「津波はここまで来た」という先人からの言い伝えを忠実に守った結果そうなったのだろう。過去の最大規模の津波の大きさに比べて甘い想定しかされていないことを指摘されたとき、その警告を無視して福島原発を危険な状態のまま放置していた東京電力の(クソ)幹部どもとは大違いである。
毎日新聞の記事を引用しよう。
東日本大震災:先人は知っていた 「歴史街道」浸水せず
津波浸水図※東北大学防災科学研究拠点事務所の資料・国土地理院航空写真を基に作成
東日本大震災に伴う津波で大きな被害を受けた仙台平野で、浸水域の先端が、江戸時代の街道と宿場町の手前に沿って止まっていることが、東北大の平川新教授(江戸時代史)の調査で確認された。仙台平野は400〜500年おきに大津波に見舞われており、街道は過去の浸水域を避けて整備された可能性が高いという。平川教授は「先人は災害の歴史に極めて謙虚だった」と話し、今後の復旧計画にも教訓を生かすべきだと提言する。
国土地理院が作製した東日本大震災の浸水図に、平野を縦断する奥州街道と浜街道を重ねたところ、道筋の大部分と宿場町が浸水域の先端部からわずかに外れていたことが分かった。宿場町の整備後に仙台平野を襲った慶長津波(1611年)では、伊達領で1783人が死亡したとの記録が残る。平川教授は「慶長津波を受けて宿場町を今の位置に移したとも推察できるが、今回の浸水域と比べると見事なほどに被害を免れる場所を選んでいる。津波を想定して道を敷いた可能性は高い」と指摘する。
同平野は明治以降も繰り返し津波に見舞われた三陸海岸と比べ、津波被害の頻度が少ないとされる。慶長津波の浸水域は明らかになっていないが、内陸約4キロの山のふもとまで船が漂流したとの記録がある。東北大の別の研究チームによれば、今回の津波は海岸線から最大5キロ程度に達し、平安時代の貞観地震(869年)の浸水域をやや上回った。
平川教授は「残念ながら明治以降の開発において、津波の経験は失われた。復興のまちづくりは災害の歴史を重視して取り組んでほしい」と話している。【八田浩輔】
オレは福島原発の事故は「天災」ではなくて「人災」だったと思っている。それはもっと大きな規模の津波に東北電力の女川原発が耐えたことからもよくわかる。必要な津波対策を怠った結果、多くの被害をもたらし、近隣住民が家に帰れないような状況にしてしまった東京電力会長や社長は、業務上過失傷害(もしも今後死者が出るようなことがあれば致死)で訴追されるべきだとオレは思うのである。JR西日本の脱線事故の場合は運転士のミスに起因する部分が大きかったが、それでもJR西日本の社長は訴えられた。今回の原発事故はトップが津波対策を怠ったことが直接の原因であり、訴えられても当然だと思うのである。
日本は地震国である。これはまぎれもない事実だ。その日本で真に安全な場所など実はどこにもないのかも知れない。我々の暮らしている社会とはなんと脆弱な土台の上に乗っかっていることだろうか。もしももっと大きな地震がやってきて原発を一瞬にして破壊してしまっていたら、日本にはもはや誰も居住できなくなっていたかも知れないのである。計算不能なリスクのあるものをたかだかゼニだけの問題と考えて導入してしまった愚を我々は反省しなければならないのである。
←1位を目指しています! m(_ _)m 週刊アクセス庵もよろしく。 投票博物館