2011年02月25日(金) |
その男の心の中にあるのは「虚無」だけなのか? |
携帯用URL
| |
|
どうかお読みになる前に←応援のクリックをお願いします! m(_ _)m
21年前に妻子を殺して懲役20年の刑を受けた男が居た。刑期を終えて出所してきた。その名前は伊能和夫、彼は就職がうまくいかずに生活保護を受けていたが、日々をどのように過ごしていたのだろうか。大切な妻や子どもを手に掛けてしまった彼にはもはや何一つ失うものはない。彼の心の中には「虚無」という名の闇しか存在しないのかも知れない。人定質問で名前を問われても何一つ答えない彼にとって、その「伊能和夫」という名前すらどこか遠い世界の自分とは関係ないモノになってしまったのかも知れない。その「虚無」と向き合った裁判員たちはどう対処すればいいのだろうか。
朝日新聞の記事を引用しよう。
名前も黙秘、戸惑う裁判員 強盗殺人事件初公判 2011年2月25日3時15分
強盗殺人などの罪に問われ、取り調べや裁判で一言も話さない被告について、状況証拠だけで有罪といえるかを市民が判断する裁判員裁判が24日、東京地裁で始まった。弁護側は無罪を主張しているが、検察側が死刑を求刑する可能性もある。7日間の審理と6日間の評議を経て、判決は3月15日に言い渡される。
無職伊能和夫被告(60)は捜査段階で黙秘を続け、初公判で裁判長が氏名や生年月日を尋ねても一切、答えなかった。弁護人は「黙秘権は憲法で認められた権利」と主張したが、戸惑う裁判員もいた。
起訴状によると、伊能被告は2009年11月15日、東京・南青山のマンションに金目当てで侵入し、室内にいた飲食店経営・五十嵐信次さん(当時74)の首を洋包丁(刃渡り17.5センチ)で突き刺して殺害したとされる。
検察側は冒頭陳述で、被告の靴底に五十嵐さんの血液がついていたことや、犯行時間帯に現場付近の防犯カメラに被告らしい人物が映っていたことなどから、被告が犯人だと主張。過去に重大事件を起こして懲役20年の刑を受け、出所後約半年で今回の事件を起こしたと説明した。
一方、弁護側は「被告は五十嵐さんの部屋には入っておらず、殺害もしていない」と無罪を主張した。出所後の就職はうまくいかなかったが、生活保護を受けており、「生活には困っていなかった」と主張した。
60歳の伊能和夫被告にとって、たとえ有期の懲役刑になったとしても生きているうちに出所することはもう叶わないかも知れない。否認し続けることでもしも無罪を勝ち取れるならという計算があったのだろうか。しかし、裁判員たちはかなり心証を悪くしているだろうから、かなり予断に満ちた判断を下すかも知れない。状況証拠しかないとはいえ、靴に血痕があったということであるし、わざわざその場所に行ったという理由は強盗目的ということだったのだろう。「行かなかった=犯行に関与していない」という主張を貫くために弁護人は「そんな場所には行っていない」と主張しているのである。
「黙秘権」は憲法で認められた権利である。しかし日本人の感覚として「正直に罪を認めた方が反省したように見える」というとらえ方がある。裁判員裁判でこのような「完全黙秘」という容疑者が出廷した場合、多くの裁判員は「日本人のふつうの感覚」でこの被告に対して悪い印象を持つだろう。
しかし、伊能和夫被告は語るべき何かを持ってるのだろうか。彼にとって人生の意味はいったい何だったのだろうか。彼は「人生に意味を持たせる」ためにこの事件を起こしたのではないか。そのまま生活保護を受けてひっそりと暮らしていくのではなく、犯罪という形で世の中に影響を与えつつ暮らすことを選んだのではないか。捕まらなければ捕まるまで強盗殺人を重ねるつもりではなかったのか。オレにはそんな気がするのだ。
もはや失うものなど何もない彼にとって、この世で起きていることはすべて自分とは無関係の茶番でしかないのかも知れない。自分が起訴された裁判というのも自分とは無関係の儀式であり、そこに出席させられても何も語るべきコトバを持たないのかも知れない。
この裁判が彼にどんな罰を与えたとしても、彼は反省して悔い改めることはないだろう。自分の運命をそのまま受け入れ、生物学的な寿命が来るまでただ生きているだけだ。そして罰を与えなかったとしたら彼はまた同様の行動を起こすだろう。何も失うものを持たない彼にとって、もはや守るべき規範など存在しないのだから。仮に死刑判決を受けたとしても、その判決自体が彼にとって何の意味もないのである。もはや伊能和夫被告の心の中には「虚無」しか存在しないのだから。
←1位を目指しています! m(_ _)m 週刊アクセス庵もよろしく。 投票博物館