2011年02月24日(木) |
生と死の不条理について |
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数十人の死者と多数の行方不明者を伝えるニュージーランドでの地震被害を報道するその新聞記事の隣には、リビアで反政府デモを行う民衆が空爆されて数百人の犠牲者が出ているという記事があった。ビルが倒壊してがれきの下に埋まった人を救うために必死で捜索しているその時間に、同じ地球上では残虐な無差別殺戮が行われていた。オレはその記事を眺めて深く絶望したのである。人類とはかくも愚かなのかと。
ヨットで世界旅行していた米国人4人が、ソマリア沖で海賊に襲われた。バーレーンにいた米軍の第四艦隊すぐに現場に急行して人質となった4人の解放交渉に当たったが、海賊側は突然発砲して交渉は決裂、戦闘の終わった後でヨットに乗り込んだ海軍特殊部隊は人質となっていた4人が全員殺されていたことを知る。その米国はアフガニスタンでは無人攻撃機を飛ばして多くの罪もない市民を誤爆によって殺害している。攻撃の巻き添えになった犠牲者の数は数千人に達するという。
米国民は4人を殺害した海賊をこぞって非難するだろう。とらえれた15名の全員死刑を要求するだろう。しかし、誤爆で毎日のように無辜の市民を殺しているという事実と比べて矛盾しないか。命の重みはアフガニスタンの市民もアメリカ人も同じではないのか。
米軍はいとも簡単に大量殺人を行い、しかもその攻撃機は無人機だから安全な米国内からゲーム感覚で操作できるのである。
命の値段に格差があってはならない。しかし、そんなことはいくらオレがここで主張したところで無駄なのである。金持ちの命は高く、貧乏人は安い。金持ちほど逸失利益が多かったとされ、多くの賠償金をもらうことができる。それでもまだ日本に生まれた我々は幸せなのだ。たとえ生まれてまもなく母親に捨て子ポストに捨てられたとしても、ちゃんと里親になって育ててくれる人がいる。同じような状況で放り出されたらそのまま赤ちゃんは餓死してしまう。
地球上にはまだまだ戦争継続状態の国はいくつもある。ニュージーランドでがれきの中から助けられる日本人留学生と、リビアで空爆を受け、がれきの中に埋もれて死ぬ若者とを比較してもその両者に命の軽重はない。
オレは生と死の不条理について考えるのである。死ぬ人と生きる人とは何が違うのかと。そして自分は果たしてどちらの側の人間なのだろうかという疑問だ。
救出された邦人の喜びの声を伝えるマスコミは、カダフィ大佐の命令の下で虐殺された市民のことを思い出すまでもないのかも知れない。
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