2011年01月30日(日) |
金丸七郎先生の思い出 |
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オレは高校生の時に、金丸七郎先生から音楽を習った。オレが出会った多くの教師たちの中でも金丸先生のことはやはり強烈に覚えている。その金丸先生と卒業以来久々に逢うことができたのである。生野高校同窓会の公開講座で「あの懐かしい授業をもう一度」という企画があり、そこに金丸七郎先生がおいでになるということを知ってオレは迷わず駆けつけたのだ。
オレが高校に入学したとき、芸術は選択制になっていて「音楽」「美術」「書道」「工芸」のいずれか一つを生徒は選ぶという仕組みだった。オレが音楽を選んだのは何も音楽が好きだったからではなく、美術や工芸や書道ならきっと「宿題」というか「課題制作」があるが、音楽の場合は歌えばそれでオシマイで宿題などはないだろうという消極的な理由だったのである。しかし、音楽の授業は本当にすばらしかった。オレは「疲れるほど歌う」ということがどういうことかを生まれて初めて理解した。金丸先生は関西二期会のオペラ歌手でもあったのだが、歌うことへのこだわりは本当に強かった。声が出ていない時は何度も何度もやりなおしさせられた。その時と同じく発声練習からはじまり、授業で歌ったなつかしい歌を次々と歌い、金丸先生の面白いトークがあり、独唱があるという昔と変わらぬ授業だったのである。
オレは高校1年の時のクラス担任が金丸先生だった。音楽の先生のクラスということでクラス全員が芸術は音楽選択だった。その中で見込みのある者は音楽部へと勧誘されたが、さほど歌がうまくない私には当然声が掛からなかった。かわいい女子がたくさんいる音楽部に勧誘される男子が羨ましかったものである。また年に何度か関西二期会の公演があったのだが、そこに金丸先生が出演するのでクラスの生徒たちはほとんどみんな観に行ったのである。金丸先生は生徒たちにとても慕われ、特に女子の人気を集める存在だった。
高校に入学したばかりのオレは、小説ばかり読んでいてろくに勉強しなかったために成績がクラスの最下位近かった。母親と一緒にクラス担任の金丸先生からお説教を受けたこともあった。もっともオレの低空飛行は一年間続くのであったが。
授業中に金丸先生はインド日本人学校での話をされたことがある。インド人と同じように手で食べる時を再現したそのしぐさが面白かったことを思い出す。また歌唱のテストは一人ずつ前に出てきて歌うのだが、緊張してオレはいつもちゃんと歌えなかった。おかげでオレはみんなから「音痴」と思われていて、合唱コンクールの時は譜面めくりをさせられたことを思い出す。上手な生徒が歌った後には金丸先生の「ブラボー」という賛辞が出たのである。
金丸先生の音楽の授業では、イタリア語やドイツ語の歌を歌うこともあった。教科書に載っている歌はほとんどやらなかった。合唱コンクールの課題曲は「水のいのち」という合唱組曲の中の「川」という歌だった。(→クリックすると聴けます)
どんな懐かしい記憶も時間が経てばいつしか忘却の彼方に去ってしまう。しかし、その中でも音楽の授業の記憶はいつまでも色あせないで鮮明に蘇るのだ。今も元気で歌う金丸先生のお姿を拝見すると、30年以上も前の高校生の頃のことが思い出されてなつかしくて涙が出そうになるのだ。ありがとう金丸先生、オレはあなたというすばらしい先生に音楽を習うことができたのが大きな誇りなのだ。「オレの音楽の師匠は金丸七郎先生だ」といつも胸を張って自慢したいのだ。
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