2011年01月02日(日) |
映画「ノルウェイの森」私感 |
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元旦の夜、映画が1000円になるこの機会にMOVIX堺で映画「ノルウェイの森」を観た。21:10からという時間のせいか、観客は自分たち2人を含めて6人しかいなかった。そんなにも人気のない映画なのか、あるいはもう旬を過ぎているからか、ネット上での酷評を読んで見に行くのをみんなやめたせいなのか。原作の愛読者であるオレは、たとえ駄作であろうとなんであろうととにかく映画を観ておきたかったのだが。
この作品を監督したトラン・アン・ユン氏は、おそらく作品の本質を誤解していたか、あるいは映画化するにあたって全く別物にしたかったのかのいずれかだろう。それがオレの映画を見た後の感想である。原作の小説を読んだときに感じたなんともいえない喪失感は映画の中には微塵も存在しなかった。はっきり言おう。小説の方は「大きな喪失に耐えながら生きようとする人々の物語」だが、映画はのテーマは「セックスと恋愛感情の乖離」としかオレには感じられなかったのである。
オレは菊地凛子という女優が好きではない。2006年の「バベル」で彼女が女子高生役を演じたのは日本人が外国人から見て幼く見えるからというだけの理由であり、日本では年齢的にそういう配役は回ってこなかっただろう。その4年後だから20歳の役というのは無理がありすぎる。小説を読んだときのオレのイメージは、儚げで壊れそうな美少女だった。もちろんそういう透明感のある美少女は、セックスシーンのある「ノルウェイの森」に出せないのかも知れないが、それならあっさりと映像化をあきらめればよかったのである。
菊地凛子は確かに「心が徐々に壊れていくヒロイン」を好演した。そう、セリフ棒読みのミドリ役の水原希子(映画には初めて起用されたらしい)などとは格が違う。しかし、それは小説に描かれる直子の姿とは違うのである。
「愛する対象に自殺された深い悲しみ」を表現する方法として、トラン・アン・ユン監督が松山ケンイチに鼻水やよだれまじりで絶叫させることしか思い浮かばなかったのならばそれは日本人の心性を理解しなさすぎる。もっと静かに、しかしもっと深く傷ついたはずなのだ。どうしてもっと別の描き方をしなかったのか。
直子はなぜ死ななければならなかったのか。オレは小説を読んだときにずっとその意味を考え続けた。少なくともこの作品が映画化されるということは、その問いに対して何らかの答えを用意してくれるはずだとオレは思ったのである。しかし、どこにもオレの期待したような答えはなかった。もしも原作を読まずにこの映画を観た人ならば、直子の死の理由を「愛していない相手に身体が反応してしまったことへの自己嫌悪」としか受け取らないだろう。そんなふうに誤解されてしまうことがオレはたまらなく悔しいのである。
オレは村上春樹の作品が好きだ。しかし、あまりにも彼の本は売れすぎ、多くの人に読まれすぎてしまった。そのために多くの「すぐにブックオフに売り飛ばしてしまう」連中にまで本が買われることとなった。彼の作品はどれも宝物として繰り返し読まれるべきなのに、ろくに価値も理解しない連中に誤解されて読まれることとなった。その誤読者の一人がトラン・アン・ユン監督だったのである。
小説の中で大切なのは本筋だけではない。細部にもきちっとした意味があるし、脇役のような登場人物にもちゃんと果たすべき役割があってそこに描かれているのだ。それを大胆に切り捨てたときに、必然的な行為の必然性が失われてしまう。レイコさんと二人で直子のお葬式を行ったときに、すき焼きを食べたはずなのになぜあんなわびしい食事なんだ。そしてレイコさんが知ってる限りの曲をギターで弾き、最後にノルウェイの森を弾く。あの場面こそ、この物語の中でもっとも大切な場面ではなかったのか。そこをなぜすっ飛ばしてしまったのか。
映画「ノルウェイの森」は原作である小説の価値を100とすれば、せいぜい10程度のものでしかないようにオレには感じられた。しかし、決して駄作ではない。この一年間でオレが観た映画の中ではやはり上位にランクされるし、もう一度繰り返し観てみたいと思う作品であることはまぎれもない事実である。だからこそあえて言いたいのだ。もうこの作品を映画化するような無謀なことはやめてくれと。あの作品世界をもうこれ以上勝手に歪めないでくれと。それがオレの勝手な感想である。どうかみなさんも実際に映画館に足を運んで観てきて欲しい。オレは最初から最後まで画面から目が離せなかった。気がついたらエンドロールが流れていたぜ。
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