2010年11月04日(木) |
死刑とは応報の刑罰である |
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耳かき店女店員殺害事件の裁判員裁判が終了し、無期懲役という量刑になったことに対して多くの批判が出ている。今回の判決の理由を端的に言えば「裁判員には人を殺す覚悟ができていない」ということである。つまり、自分のせいで死刑になったと思いたくないのである。もしもオレのような裁判員ばかりなら死刑はじゃんじゃん行われるだろう。残念ながら裁判員の方々は平均的日本人の穏やかな方々が多く、オレのような過激な思想の持ち主は少ないのである。なぜそこで「自分が正義を実行する!」と思えないのか。誇りを持って死刑判決を下さないのか。自分たちが死刑という決定を下してこそ遺族の方は納得するのではないか。
「反省している」「反省していない」」というふうに犯罪者を二つにわけることはできない。 「心から反省している」と「全く反省していない」の間には無数の中間の段階が存在しているからだ。「反省しているふりをしているけど実際は反省していないクソ野郎」も大勢居る。小野悦男のように、人を殺しておきながらお人好しの支援者をだまして冤罪という主張を貫いたクソ野郎もいる。
「人を殺したら命で償うしかない。」
「被害者遺族には仇討ちの権利がある」
というのがオレの死刑廃止反対の根幹である。西洋のような刑罰の概念ではなく、武士道の国である日本には日本独自の法解釈や死刑の存在理由があるはずだ。被害者遺族の応報感情に応えることのできる唯一の方法が、犯人を死刑にすることなのだ。だからオレは死刑は必要だと思うのである。
たとえ被害者が一人であっても、その殺害の方法がきわめて残虐であったり、保険金殺人の場合は死刑を科すべきだとオレは思うのだ。あと矯正不可能な強姦殺人犯も同様だ。二度と社会に出せないようなクソ野郎は死刑以外に考えられないのである。
自分の歪んだ恋愛感情が叶えられないからとその相手を殺し、その家族まで殺そうとするような人間に「反省」なんてものを求めてはいけない。行為に対する罰あるのみである。「真に反省している」のならばその気持ちを行動で示すべきで、それは自殺して償うということである。こんな恥ずかしいことをしてとても生きていられないという贖罪の気持ちで死のうと決心してそれを実行に移した時はじめて「反省した」といえるのである。
「西洋で死刑を廃止してるから日本も廃止するべきだ」
という乱暴な主張をする馬鹿もいるが、ちゃんと自分の頭で考えて欲しいのである。よそがこんなふうにしてるからうちも合わせようというのは子どもの論理だ。逆に西洋に対して死刑の必要性を説くくらいでないとダメだ。
世界のすべての国が死刑を廃止しても、日本だけは廃止するべきではない。絶対に圧力に負けたらダメだ。がんばって死刑制度を貫いて欲しいのである。また、裁判員に選ばれたみなさんには、死刑にして人を殺す覚悟を決めてもらいたいのである。もしもその被害者が自分の身内であって、あなたは「無期懲役」を選んでいただろうか。自分の家族が殺されたような事件でたまたまその裁判員に選ばれることはないだろう。しかし、被害者やその家族がどんな思いでいるのかを考えれば、覚悟を決めて死刑に投票して欲しかったのである。
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