2010年02月12日(金) |
もう一度、朝青龍問題を考える |
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朝青龍が引退を表明してから約一週間過ぎた。もう一度この問題の本質についてオレは考えてみたい。つまるところこれは外国人労働者の問題なのではないかと。日本人の若者が希望しなくなって、相撲に入門してくれる人材が減少した。その不足分を外国人で補うという構図は、製造業の現場で日本人の若者がいわゆる3Kの職場を嫌っている結果ブラジル人や中国人を雇用していることと同じである。製造業の現場で日本人のやりたがらないことを外国人にやらせている状況と同じことが相撲でも起きていただけだ。
多くの外国人労働者が働いている職場ではそのために当然さまざまなトラブルが起きる、それは大相撲の世界でも同じことだ。日本とモンゴルでは生活の習慣も文化も違う。その違いを「相互に歩み寄る」という形ではなくて「相撲のしきたりに合わせる」という形で努力を外国人にだけ求めてきたわけである。
朝青龍に品格がなかったことが問題とされる。しかし、品格というのはそもそもなんだろうか。冬季五輪スノーボードの日本代表である国母和宏などを見てると品格のないのは別に外国人だからということでもないようだ。品格のないヤツは日本人外国人に限らない。そもそも「品格」などという形のないもので朝青龍を批判したのは、それ以外に批判のしようがなかったからである。相撲内容などは文句の付けようがない。年間6場所すべての優勝した力士は過去に一人もいなかった。つまり、相撲に関しては文句なしの100点満点なのだ。そのケチの付け所のなさゆえに、彼は相撲以外の場での批判を受けることになったのではないか。
たとえば土俵の上で勝者が敗者に対する思いやりを示せるのは、あの世界が閉鎖的な一つのファミリーであるからだ。ところが部屋の親方に対してなんの敬意も感じていない朝青龍は、おそらくそうした価値観とは無縁の所にいたのではないか。土俵の上では鬼にもなるというのが彼の本音である。勝つことしか考えていなかった彼にとって、それ以外の心遣いが必要とされることは全く
想像の外にあった。
酔っぱらって人をぶん殴るという行為が品格に欠けることは誰の目にもはっきりわかる。土俵の上での張り手はOKだが、土俵以外のところでそれをしてしまうとアウトだ。それはどんな職業、どんな世界でも同じことで暴力沙汰を起こせば会社はクビになるし公務員なら免職ものである。
朝青龍は短期間で相撲の世界の頂点に立ってしまった。自分よりも強い存在はなくなった。一番嬉しかった瞬間はいつかを聞かれた彼が、まだ小結だったときに両親の前で横綱武蔵丸を倒した時だったと答えて涙ぐんだのを見たとき、オレはなんだかせつない気持ちになった。人を殴ったことを一番後悔してるのはまぎれもなく朝青龍本人なのである。酒癖の悪さを理解しつつも酒をやめられなかった弱さを誰よりも知るが故に、彼は引退という形で自らの相撲人生の幕を引いた。
オレはテレビで大鵬の取り組みを見た記憶がある。しかし、まだ小学生の頃だからはっきりとは覚えていない。覚えているのは巨体だったことくらいだろうか。だが千代の富士や貴乃花の強さはよく覚えている。しかし一番印象が強いのはやはり朝青龍の憎たらしいほどの強さである。
日本人がいやがってしてくれなくなった「相撲」という仕事を外国人頼みにした。その結果、4年間ずっと外国人が優勝するということになってしまい、もはや外国人抜きでは相撲そのものが成立しなくなってしまった。その状況を考えれば、もはやこの相撲という競技は世界にオープンにして、部屋制度を解体してもっと格闘技としての方向性を持たせるのは一案かも知れない。しかしあくまで型にこだわるのならば、レベルが低くなってもかまわないから外国人の入門を制限し、縮小の方向に進むしかない。飛び抜けて強い外国人がいるから優勝をみんなさらわれるわけで、みんな弱い日本人ばかりならそんなこともないだろう。そんなふうにオレは思うのである。
アメリカ大リーグだって外国人労働者に頼っている。そうやって門戸開放したことでさらに大リーグのレベルは向上した。しかし大相撲はそうではなかった。中途半端な門戸解放の中で、外国人労働者である力士たちはその微妙な立場に苦しみ、トラブルを起こして多くは去ってしまう。相撲の世界に不可欠な存在である外国人労働者に対して、もっとその立場を尊重すべきではないのかとオレは思ってしまうのである。
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