2009年11月02日(月) |
映画『沈まぬ太陽』〜筋を通して生きることの意味 |
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11月1日は日曜日と映画の日が重なって1000円で鑑賞できる日だったので、オレは『沈まぬ太陽』を観てきた。久々に本格的な作品を観たなあとしみじみと思ったのである。3時間を超える大作だった。
組織に所属する人間が、意に沿わない転勤を命じられたときにどう対処すればいいのか。そこで黙って従うという生き方もあれば、腹を立てて辞めてしまうという生き方もあるだろう。
オレは今から16年前公立高校で教えていた。進路指導を担当し、大学進学者を増やすために模擬試験の受験者を増やしたり、進路説明会で熱く語ったり、素質のある生徒が高い目標に向かって頑張るように励ましたりと仕事に打ち込んでいた。高校1、2年と担任してきた生徒たちを卒業まで指導したいと思っていたのに、突然府教委はオレに転勤の辞令を出した。その転勤先の高校は大学進学者などほとんどいなくて、入学試験の偏差値も極端に低く、日々生徒の生活指導に追われるような学校だった。なんのために進路指導してきたのか、一人でも多くの生徒を難関校に入学させるための努力はいったい何だったのか。オレは生徒に受験勉強を教える自信はあったが、全く勉強のことなど考えずに日々を過ごす高校生たちの相手をする自信はなかった。結局、オレは辞表を出して公務員の身分を失った。幸いなことにオレは私学に就職することができ、教師を続けることができたのだが。
組合の委員長をしていたために懲罰人事でカラチ勤務に飛ばされる渡辺謙を観ながら、オレは16年前の自分の姿と重ね合わせていた。あの時辞めることができた自分はきっと幸福だったのだろう。多くの公務員や企業戦士たちは組織の中でただのコマとして動かされ、辞令一本でどこにでも行かされるのだ。それを拒否したかったら辞めるか、閑職で定年まで過ごすしかない。『沈まぬ太陽』はその理不尽な辞令に従って生きる男の物語である。仕事の中で直面するさまざまな困難をその都度克服する姿にオレは涙した。どうしてこれほどまでに過酷な運命を主人公に背負わせるのかと。
山崎豊子の作品で『大地の子』という、これもまた映像化された作品がある。それはまぎれもなくフィクションなのだが、すべて実際にあった出来事としか思えない迫力があった。今回の『沈まぬ太陽』も同様にフィクションと銘打たれてはいるが、すべて本当に起きていたことのようにオレには思えたのである。航空機事故の遺族への対応、乱脈経理、政治家との癒着、映画の中で描かれるすべてがそのまま現実のことのような説得力でオレに迫ってきたのである。
男として筋を通すことと、家族を守ることのどちらが大切なのだろうか。よりよく生きるとはどういうことなのだろうか。人は何のために生きるのだろうか。事故で一瞬にして失われた多くの命を前にして、関係者はいったい何ができたのだろうか。
今、日本航空が経営危機に陥っている。そのタイミングでこの映画が公開されたというのも一つの偶然なんだが、映画を観ていればなぜそうなったのかがよくわかる。こんな会社だからこうなったのだということがよくわかるのだ。しかし、その会社をよりよくするために必死で働こうとする人たちもまたいるのである。
もしも自分が組織に忠誠を誓い、辞めずに公立高校にとどまっていればどうなっただろうか。指導困難校に次々と転勤させられながら仕事への情熱を無くしていただろうか。あるいはもっと別の生き甲斐をそこで発見していただろうか。それはわからないのである。もしかしたら大学進学など考えていない高校生こそ、自分のような教師との出会いを求めていたかも知れないのだ。「せっかく教師になった以上、東大や京大に進学するような生徒を教えたい」という夢は叶った。しかしその生徒たちは真に自分を必要としていたのか。彼らは別に自分なんかいなくても勝手に東大や京大に進学していったのではないか。そんなことをオレは映画を観つつ考えていたのである。
『沈まぬ太陽』は3時間を超える大作である。しかし小説はもっともっと長い。分厚い本で全5巻である。その長さをこの時間に詰め込むのはやはりかなり無理がある。だから無駄な場面など一つもなく、最初から最後までオレは映画の世界に引き込まれていた。(映画は)長かったけど(感覚的には)短かったという印象である。観客の平均年齢はかなり高かった。そしてその年配の観客の多くが、映画に感動して涙を流していた。
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