江草 乗の言いたい放題
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2009年01月01日(木) 学ぶことの価値はなぜ失われたのか?        ブログランキング投票ボタンです。いつも投票ありがとうございます。m(_ _)m 携帯用URL by Google Fan




 かつて「勉強すること」というのはそれ自体に価値のある行為ではなかったか。何故その価値がこれほどまでに貶められたのか。なぜ「無知」を売り物にする芸人たちが闊歩するようになったのか。そして一国の首相までもが「無知の王」として君臨しているのか。「知」の価値がこれほどまでに失われた時代がかつてあっただろうか。オレはそれを嘆かわしく思うのである。

 いまもしも「バカのままでも東大に入れる!」という本を出版すれば爆発的に売れるだろう。世間が求めているのは「東大に入れるような知」ではなくて「知なんかを身につける努力なしに東大に入る方法」である。つまり、世間が必要としているのは「東大に入った」というキャリアであって、「東大に入れるほど勉強した」という事実ではない。受験勉強というものがすべてそうした形で変質してしまった結果、真に「知」を求めるような学生はどんどん競争から脱落し、最低限の学習時間で要領よく受験をパスする者たちが生き残り、さらに彼らの多くが「知」そのものに対して価値を感じていないという事実が事態を悪化させるのである。

 受験生の学力レベルはどんどん低下しているという。そんなことは当たり前で大学の定員が変わらないのに18歳人口が減少してるからで、人口が200万から100万に減れば賢い受験生の実数も半減するのが当然なのに、東大や京大の定員は20年前とほとんど変わらない。地方の国立大にまで優秀な学生を行き渡らせることは実際の所無理になってしまったのである。今、日本中の大学を支配しているのは「無知の集団」である。どうして人口の減少に合わせて大学の定員を減らさなかったのか。なぜ国立大学の定員をたとえば18歳人口の5%というふうに制限しておかなかったのか。今や日本の大学生は「世界一お馬鹿な若者の集団」と成り果てているのである。

 オレは昨年末に駿台予備校の主催する研究会に出席した。京大、阪大、神戸大を志望する受験生の動向と、駿台の出題した実戦模試を通して来年の3大学の入試を考えるという内容だった。そこでも少し話題になったのは、最近の受験生のお馬鹿ぶりだった。たとえば京大実戦模試の記述式問題の解答例(誤答例)がいくつか紹介されていたが、京都大学を志望する前に中学の勉強をやり直せよといいたくなるようなものもあった。

 数年前だったか、センター試験で古文の係り結びの問題が出題されたことがあった。ラ行変格活用の「侍り」という動詞を活用させて空欄に補うという基本問題だが、係助詞の「ぞ」「なむ」が前にあれば連体形の「侍る」、「こそ」が前にあれば已然形の「侍れ」というふうに基本形から活用させればいいわけで、そんなことは高校で古典を勉強した者は100%知ってることだとオレは思っていた。しかし、実際の現役受験生平均得点率は「ぞ→侍る」が約50%、「こそ→侍れ」が33%というところだったという。駿台予備校の説明では、この問題の駿台生の正解率がそれぞれ67%、55%と向上しているということだった。しかしオレは「浪人して駿台予備校に行ってもまだ係り結びさえわかっていない馬鹿が存在するのか」ということに驚きを禁じ得なかったのである。

 係り結びのわかっていない者は「仰げば尊し」の歌詞の意味はわからないだろう。「今こそ別れめ」の「め」は、前に「こそ」があるから「め」なのだということなど想像したこともないだろう。古典を読むということは、そんな基本知の積み重ねなのである。そうしたことを正確に理解することの果てに「源氏物語」のような難解なものが読めるようになるのだ。しかし今の受験生が求めるのは「文章の意味なんかわからなくても要領よく点数が取れる方法はありませんか」ということなのである。

 大学生の英語力が弱いから小学生に英語を教えるという。早期教育で解決するような問題ではないだろう。オレは日本人の英語力が劣ってるとは思っていないし、もしも日本の英語教育に本当に問題があるのなら、世界で活躍するビジネスマンも出なかっただろう。馬鹿まで大学に入れるから英語のできない連中も増えるのである。小学生のうちから英語なんか教えたらますます学力格差は拡大するだろう。もっとも文部科学省の目指す未来というのが受験生の格差拡大にあるのならば、英語の早期教育は実によい狙いである。中学に入ってからやってくる挫折を先に与えることができるからだ。東大や京大の英語の問題が求めてる能力は、英語力というよりはむしろ思考力や国語力である。日本語で読んでも難解な抽象的な内容を英語で読ませたりするのである。ふだんの生活で英語で考えるような生活を送っていない以上、そんな問題に対処する方法とはいかに意識のレベルを常に高次に位置させるかということに他ならない。今指導要領を改訂して小学生から英語を教えるとしても、そこで伝えられるのはテレビに出てるお馬鹿芸人が話してる内容レベルでしかない。そんなことではとうてい「知」は伝えられないのだ。

 どうすれば「知」を尊ぶ風土を作ることができるのか。逆説的だがもっと競争させればいいのである。センター試験の成績上位者の出身校や名前はそれこそ発表してやればいい。甲子園球児たちがヒーローとしてもてはやされても、センター試験戦士たちの名前が報道されることはない。しかし、そこに価値はないのか?学びによって頂点を目指そうとすることがなぜ世間では「ダサい」こととされ、勉強のできる子がむしろいじめの対象とされてしまったりするのは、それこそテレビの「羞恥心」などのお馬鹿芸人に代表される馬鹿礼賛の風潮の表れではないのか。

 文部科学省は大学院の定員を闇雲に増加させ、その就職口としてのお馬鹿大学を日本中に増殖させ、そこで教える多くの大学教員たちは薄給にあえぎながらも生活の糧を得るために馬鹿の相手をしている。学生たちは講義の内容などてんで理解する気はなく、隠れてメールを打ったりPSPやDSに興じたりしている。それが今の大学生の平均値的な姿である。本来安い労働力として労働市場に流出すべき若者は、大量のごくつぶし階級として親のスネをかじり続け、結果として社会全体を貧しくしてしまう。馬鹿しかいない大学のためにどれだけの補助金が支出され、どれだけの親たちのゼニが授業料や仕送りとして消えているのか。日本中に増殖した、誰でも全く勉強しないで入れるFランク大学というのは、「知」の意味をはき違えた文部行政の作り上げた巨大な不良債権なのである。おそらくそこには認可行政にまつわる利権が存在したと思われるが。

 しかもそのFランク大学はもう一つの弊害もたらしている。それは大学の偏差値が下がれば下がるほど、そこに学生を通わせる親の平均収入も減るということである。偏差値の高い大学ほど親が金持ちであるということはよく知られているが、逆もまた真なのである。授業料という名の収奪が、貧しい親たちをさらに貧しくする。これは巨大な格差拡大システムなのだ。オレは子どもを無理してFランク大学に通わせるために破産した親たちを数多く見てきた。そんな大学が最初から存在しなかったら、これらの悲劇もまた発生しなかっただろう。

 大学の価値が下がれば、大学生の価値も下がる。そうやって失われてしまったものを我々はどうやって取り戻せばいいのか。いかなる方法で大学生は「知」を取り戻すことができるのか。

世界恐慌が到来して日本経済もまた空前の不況に襲われることとなったこの2009年、おそらく労働市場は当分の間は冷え込んだままであろう。就職希望者にとっては大変な一年となることは間違いない。そこで求められるのは何か。就職というパスポートが得られないということになっても、学生たちは学ぶ意欲を失わないでいられるのか。就職するためだけに受験勉強をしてきた者たちにとって、それまでの努力がすべて否定される瞬間でもある。しかし、オレは彼らに言いたいのだ。

「もしも汝らが真の学びをこれまでにしてきたのであるなら、その結果がたとえ就職につながらなくても何ら悲しむことはない。むしろ学ぶこと自体が目的であったことを誇るべきである。」

 破壊の跡にしか創造はない。今必要な「知」というのは、これまでの体制を支配してきた連中が、自分たちの都合の良いように作り上げてきた社会のシステムの問題点を一つ残らず暴き立てて破壊するための道具として役立つ「知」である。この社会の欠陥を見抜き、それを改善するための「知」である。環境破壊を食い止め、アメリカに侵略戦争を止めさせるための「知」である。そうした「知」を手にするために、我々は何をなすべきなのか。賢者は過去の歴史から学ばないといけない。かつて孔子は「温故知新」という言葉を使ったことがある。なぜ今のような状況に陥ったのか、過去の歴史を検証しながらその矛盾がどこから発生し、どこから拡大したのかを我々はしっかりと解明しなければならない。過去の歴史を学びながら、その中で未来への指針を得ること、それが今の我々に求められているのであり、今必要な「知」である。

 WEB社会の片隅に棲息する一人の日記書きとして、そして大阪のある高校で教壇に立つ一人の名もない教員として、オレは自分がこの社会にどれほどの影響を与えることができるのか、己のその無力さを嘆く。しかし、その嘆きを嘆きのままに終わらせることはできない。空しい行為であると理解しつつも、オレはこうして日々日記を書き、教壇で生徒に正義を訴える。自分の努力がほんの少しでも社会をよりよくすることに役立つことを願い、夢をあきらめたくはないからである。


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