2007年12月07日(金) |
書評『青い鳥』〜重松清 |
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ムラウチ先生はうまくしゃべれない。言葉の最初がつっかえてしまう。なかでも「カ」行と「タ」行と濁音は全滅。だから先生は名字が「タ」行の生徒は名前で呼び、「タ」行の名前の生徒は名字で呼ぶ。朝の挨拶も「おはよう、ごっごっございます。きょ、きょ、きょ、今日は生活指導部からの、ぷっ、ぷっ、ぷっ、ぷぷぷプリントがあるので、くくく配ります。」となってしまう。上手にしゃべれないのにどうして教師になったのだろうと生徒たちは誰でも思ってしまう。しかし、ムラウチ先生はだからこそ教師になったのだ。うまくしゃべれないからこそ、大切なことしか話さない。彼が選んだ大切なこと、それはいつも生徒のそばにいること。ひとりぼっちの生徒のそばにいること。いじめを受けている生徒、周囲とうまく溶け込めない生徒、心に傷を負っている生徒、そんな生徒にこそムラウチ先生は必要なのだ。
この小説にはさまざまな生徒が登場する。心に傷を負ってうまくしゃべれない生徒、教師を刃物で傷つけてしまう生徒、学校行事が大嫌いな生徒。主人公はそうした一人一人の生徒たちである。その一つ一つの物語に脇役として登場するのがムラウチ先生であり、結果的にこの作品はムラウチ先生の物語という形になっている。実は全く予備知識なしに読み始めたので、二本目の短編を読むまで誰が主人公なのかもわからずにオレは読んでいたのだ。
この本を読み終えた後で、いや、正確には最後の短編を読み終えるその直前に、オレはあふれる涙を拭った。そして、この本こそ、教壇に立つすべての人に読んでもらいたい小説だと思ったのである。
オレはなぜ教師になったのだろう。オレはこれまでの24年間いったいなにをしていたのだろう。いじめを受けている生徒の心の中をちゃんと見つめたことがあっただろうか。人はどうして他人をいじめるのだろう。そこにはどんな行動原理が働いてるのだろう。そんなことを自問自答しながらオレはこの本を読み続けたのである。進学校に勤務する以上、成績という結果を出さないといけない。生徒を大学に合格させないといけない。そして学校の価値は進学実績ではかられる。自分の努力が不十分で結果が出せなかったら、それはすぐに学校の評価につながってしまう。その環境の中で生徒たちが受験勉強を戦う一人の戦士であることを受け入れているのならいい。しかし、中にはその環境に順応しない者もいるはずだ。自分の居場所がそこではないということに気づいた者もいるはずだ。そんなときにオレはどうすればいいのか。
ムラウチ先生ならそんなときどうしただろう。そういう生徒と出会ったときにどんなことばをかけるだろう。
今も日本の多くの学校ではいじめが発生していて、新聞にはいじめを苦にして自殺する生徒のニュースが後を絶たない。統計の取り方を少し変えただけでたちまちいじめの件数は6倍に増えたという。実際はその何倍ものいじめが実際には起きているのだろう。本来楽しい場所であるはずの学校がなぜそんな場になってしまったのか。現場では今何が起きているのか。ニュースになって伝えられるのは事実のほんの一部である。いじめられた生徒が校舎から飛び降りることを決心するまでにどんな心の葛藤があったのか。それは誰にもわからない。いじめている側がわかっていないだけではなく、自殺した本人にもこたえは出せなかったのだろう。そこにはムラウチ先生はいなかった。いや、ムラウチ先生は間に合わなかったのだ。
誰もがムラウチ先生になれるわけではない。でも、この本を読んだ教師たちが一人でもこの本に心を動かし、涙を流してくれるならば、少なくともまだ学校はまだ捨てたもんじゃないとオレは期待したくなる。
この書を日本中のすべての教師と、ひとりぼっちで苦しんでいる生徒たちに贈る。
(↓本の写真をクリックすると詳しい説明が出ます。)
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