2005年12月16日(金) |
巨星墜つ(前オリックス監督の仰木彬氏への弔辞) |
携帯用URL
| |
|
どんなにすぐれた選手も、その才能を見いだす名伯楽の存在なしには世に出ることはない。今、日本人を代表するプロ野球選手を2名あげろと言われれば、誰もがイチローと松井秀喜と答えるだろう。高校時代から甲子園のヒーローだった松井と違って、イチローは高校時代は無名だった。その上入団したオリックスで彼は土井正三という球界きっての選手を見る目がない監督に出会ってしまい、そのたぐいまれな能力を埋もれさせられた。もしも仰木監督がオリックスにやってこなければイチローは世に出ることはなく、仮に一軍戦で活躍するようになっても平凡な選手で終わった可能性は高い。
仰木彬氏は1953年の夏の甲子園に福岡・東筑高で出場し、翌54年に西鉄に入団した後は三原監督の指揮の元で黄金時代の西鉄の二塁手として活躍し、1967年に引退した。選手時代は酒豪として名高く、また遊び人としても名を馳せたという。そのせいか選手の私生活には口を挟まず、「試合で結果を出せばいい」という考え方の持ち主だった。1970年からは18年間も近鉄のコーチを務め、1988年から1992年までの5年間は監督となった。1988年10月19日、ロッテとのダブルヘッダーとなった川崎球場での最終戦で、時間切れ引き分けしてリーグ優勝を逃したことは球界の語り草となっている。その翌年に近鉄は見事にリーグ優勝を果たしたのだが。
1994年にはオリックスの監督に就任してすぐに2軍にいたイチローを抜擢して起用。シーズンが始まる前のオープン戦で「今シーズンの首位打者はウチから出る!」と予言したことはあまりにも有名である。阪神大震災の起きた1995年には「がんばろう神戸」を合言葉にパ・リーグ制覇を成し遂げた。1996年にはリーグ2連覇を果たしたうえで長嶋監督の巨人軍を破って日本一になった。名監督という名は彼にこそふさわしい。
今季は近鉄とオリックスが統合された「オリックス・バファローズ」の監督に就任し、戦力的にはかなり苦しい中、巧みな選手起用で3位争いを演じた。(最終的には4位だったが)シーズン終了後は監督を勇退して球団のシニアアドバイザーに就任していたのである。その緻密な采配が「○○マジック」とその名を冠して呼ばれる人は、仰木氏と三原氏以外にはない。アメリカ大リーグで二度のノーヒットノーランを達成したあの野茂英雄を、近鉄時代にエースに起用したのも仰木監督である。
仰木氏の監督としての通算成績は近鉄・オリックス時代の14年間で988勝815敗53引き分け。勝率5割3分4厘。その仰木氏が12月15日、福岡県内の病院で死去した。享年70歳。自分が球界の盟主と錯覚しているどこかの権力馬鹿や、自分の記録を破られたくないために卑怯な手を使うクソ野郎とは違って、真に野球を愛し、球界の発展に心を砕いた巨星がこの世を去った。オレはその野球一筋の生涯に静かに手を合わせて冥福を祈りたい。オレは忘れない。あなたというすばらしい指導者がいたことを。そして、阪神が低迷していた時代にあなたが監督してくれることを多くの阪神ファンが切に望んでいたことも伝えたい。
明日も読もうと思う方は人気blogランキング投票←のクリックをぜひお願いします。
前の日記 後の日記