2005年12月07日(水) |
さよなら、恵子ちゃん |
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こんなニュースを読んだ。
昨年12月のスマトラ島沖地震の際、タイ南部を襲った大津波で行方不明になった福岡市東区の中学1年トレリ令亜さん(当時12歳)の遺体を、タイ警察が同国女性と間違えて家族に引き渡し野焼きされていたことが6日、分かった。火葬現場から令亜さんの歯列矯正器具や骨の一部が見つかり、被災から1年近くたってようやく身元が確認された。
オレはその「トレリ」という姓に見覚えがあった。福岡に住む、トレリさんという一家を知っている。なぜなら年賀状をやりとりしていたからだ。昨年の筆まめの記録を見るとちゃんと年賀状を出したことになっている。そしてトレリさんからの賀状はクリマスカード兼用で年内にすでに届いていたはずである。家族全員の写真の入ったカードだった。オレは記事の続きを読んだ。
令亜さんはイタリア人の父カタルド・トレリさん(48)と日本人の母恵子さん=当時(43)=の長女で、両国籍を持っている。
なんてことだ。
令亜さん一家はパンガー県カオラックで津波に襲われた。トレリさんと長男は無事だったが、恵子さんとトレリさんの姉=同(52)=は遺体で見つかった。令亜さんだけ行方が分からず、トレリさんは何度も現地を訪れ、捜索を続けていた。
な、なんてことだ。いったいどういうわけだ。
どうして自分は一年間もそんなことに気づかなかったんだ。トレリ・恵子さんはオレと同じ年齢だ。オレは彼女と、15歳の確かまだ高校一年生の時に諏訪湖ユースホステルで知り合ったんだ。そして、何度か手紙を交換していたんだ。
当時のユースホステルは15歳以下なら少年パスという会員証で、宿泊料金が少し安かった。福岡から一人旅できていた恵子ちゃんとオレはすぐにうち解け、住所を教え合って手紙を交換するようになった。その頃に彼女と交換した手紙は部屋のどこかにしまってあるはずだ。彼女はその後、確か高校を出てからはイギリスに留学したはずだった。
留学前だったか、あるいは一時帰国の時だったか、京都大学に通うオレのところに「東京から福岡に帰る途中に京都に寄るから」という連絡があって、大学の近くで待ち合わせした。夏の暑い日だった。そんな暑い日にオレは「とっておきの場所」に彼女を連れて行ってあげようとして大文字山に案内した。銀閣寺のところから30分ほど歩いて大文字の大の文字の真ん中の部分に登ることができる。かなり急な坂で、ちゃんと運動靴でないとつらい。
サイクリング部のオレは平気だったが、彼女は当然のようにバテバテで、「なんでこんなしんどいところに連れてくるのよ!」という感じだったが、そこから見下ろすすばらしい景色には満足してくれたのである。登った道を銀閣寺のところまで降りてすぐに目の前にあった店で、二人でかき氷を食べたのは言うまでもない。今思えばそれが彼女との最後の別れとなった。
それからずっと経ってから、手紙もすっかり途絶えてしまって忘れた頃にオレのところに年賀状が届いた。2001年のことである。オレは大学を出てから実家に戻っていたからもとの住所でちゃんと届いたのだ。彼女はイタリア人と結婚していた。大きくなった子供もいて年賀状には家族の写真があった。ずっと昔の、初めてあった頃の面影がそのままだった。
一年前のあの津波の犠牲者の中にきみが入っていたことなど、オレは全く知らなかったんだ。どうしてその中に知ってる人がいると思うだろう。そんな不幸な確率なんてオレには全く予測不能だ。さよなら、恵子ちゃん。一年も過ぎてから気がついたオレの友達甲斐のなさを笑ってくれ。そんな事実をオレは知りたくはなかったぜ。部屋を探せば、きっと初めて出会ったあの15の時にに撮った写真があるはずだ。今夜オレはその写真に線香を手向けて、43歳の若さで亡くなったきみのことを思いたい。
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