2005年11月22日(火) |
Qちゃんと円谷幸吉 |
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オレは正直言って高橋尚子が復活できるなんて思っていなかった。競技者として頂点に立った人間が、その絶頂を維持し続けることがどれほど困難なことかを考えれば、一度その頂点から降りた選手が再びそれだけのレベルに到達するのはほとんど不可能だと思ったからだ。ハーフマラソンに出て笑顔で走る彼女の姿を見ながら、これからは「元マラソンランナー」でレースに出るのかと思っていたくらいだ。
ところが全くオレの予想は覆された。選手としては完全に終わったと思われた状況から奇跡の復活を遂げて東京国際女子マラソンで優勝した高橋尚子を見ながら、オレはあの悲劇のマラソンランナーを思い出していた。彼の名は円谷幸吉、東京オリンピックの銅メダリストである。思うように走れなくなって絶望して死を選んだ彼は、「次は金メダルを」という周囲の重圧に耐えながらいったい何を考えたのだろうかと。円谷の遺書をここに全文引用したい。
父上様、母上様。三日とろろ美味しうございました。干し柿、モチも美味しうございました。敏雄兄、姉上様、おすし美味しうございました。
克美兄、姉上様、ブドウ酒とリンゴ美味しうございました。
巌兄、姉上様、しそめし、南ばん漬け美味しうございました。
喜久造兄、姉上様。ブドウ液、養命酒美味しうございました。又、いつも洗濯ありがとうございました。
幸造兄、姉上様、往復車に便乗させて戴きありがとうございました。モンゴいか美味しうございました。
正男兄、姉上様、お気を煩わして大変申しわけありませんでした。
幸雄君、秀雄君、幹雄君、敏子ちゃん、ひで子ちゃん、良介君、敬久君、みよ子ちゃん、ゆき江ちゃん、光江ちゃん、彰君、芳幸君、恵子ちゃん、幸栄君、裕ちゃん、キ−ちゃん、正嗣君、立派な人になって下さい。
父上様、母上様、幸吉はもうすっかり疲れ切ってしまって走れません。
何卒お許し下さい。
気が安まることもなく御苦労、ご心配をお掛け致し申しわけありません。
幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました。
昭和43年1月9日未明、この遺書を残して円谷幸吉は頚動脈を剃刀で切り、血塗れになって死んだ。オレは福島県須賀川市にある彼の生家で、血染めのこの遺書を読んだ。そして、なぜ彼は死んだのか、どうして死ななければならない理由があったのかずっと考え続けた。その問いに対する答えは出るわけがないのだが。
彼の一番有名なエピソ−ドと言えば、やはり幼い頃の運動会の徒競走の話だろう。一着でゴ−ルインした彼は、あとで父親から罵倒される。その理由は走っている時に、ふっと後ろが気になって振り向いたからだそうだ。
「男が走っている最中にうしろをうかがうなんていうみっともないマネをするんじゃねえ! 自分を信じれば後ろを見る必要などないっ!人が追いかけてこないから安心だなんていうのはよこしまな考えだ!」
このように父から厳しく言われた幸吉少年は、それからあとのレ−スでは常にこの教えを守り続けた。「駆け引き」という武器を彼は初めから放棄していたのである。東京オリンピックの時に、ゴ−ル寸前でヒ−トリ−に抜かれてしまい彼が3着になった理由のひとつには、初めからこの「駆け引き」を放棄したことがあったのかも知れない。
自衛隊の制服を好んで着用し、規律正しい行動を常に心がけた彼は「規矩の人」だったという。初めて出場した中日マラソンで彼が有名になったのは5位という成績よりも、自分の飲んだジュ−ス容器を投げ捨てられずにためらったその行為によってというのも印象的だ。布団の上げ下ろしは自分でやる、朝起きれば気持ちのいい挨拶をする。フロに入るときはきれいに衣服をたたんで置く。彼は合宿先の宿屋の人から常に絶対の人気を得たそうである。そして、過酷な練習メニュ−にも決して弱音を吐かない彼は「忍耐」の人でもあった。彼は少年時代、特に目立つ少年ではなく、陸上部に籍はおいていたが、特に速いランナ−でもなかったそうだ。ただ、国語の成績だけがずば抜けてよくできる子だったらしい。そんな部分にも私は彼の「繊細さ」や「あやうさ」を感じてしまうのである。
彼の生家を訪問したときに、初老の女性がお茶を出してオレの相手をしてくれた。そして、「あんな優しい子がどうして自殺なんかしたのか。」と嘆いた。「優しすぎた」から、死んだのではなかったか。26歳になってたった一度、その規矩からはみ出そうとした彼は好きな女性と結婚したいと自衛隊の上官に訴えた。しかし彼の意志は「オリンピックで勝つまで結婚させない。」という上官の命令に踏みつぶされた。
オリンピックが終わるまで待っていれば女性は適齢期を過ぎてしまう。彼は遠征のたびにいろんなおみやげを婚約者の女性の元に送っていたが、そのおみやげは段ボ−ル箱につめられて彼のもとに全部送り返されてきた。自分との結婚よりも上官の命令を優先した彼を許せなかった彼女の意地もまたオレには理解できる。彼女は円谷幸吉に「規矩の人」として生きるのではなく一人の女を愛する人間として生きて欲しかったではないだろうか。
陸上競技という記録を相手の最終的には一人きりのスポ−ツを選んだときに孤独と忍耐は自明の前提である。彼の死を「長距離走者の孤独」という形で理解してしまうことはやさしい。しかし、この「遺書」をそれだけで理解できるとは思えない。故障を抱えながらも、「オリンピックで勝たなければならない」という期待に応えるために、彼は故障の痛みに耐えて走り続けた。
帰省していた円谷幸吉が、合宿所に戻るために幸造兄の車に便乗させてもらってから、1月9日未明に自殺するに至るまでには空白の時間がある。この間の彼の行動の足どりはつかめていない。死の寸前、彼はどこで何をしていたのだろうか。
須賀川市の彼の生家の前には「忍耐」の2文字を刻んだ記念碑がある。その2文字の前に立った時、オレは彼に語りかけたかった。
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