2005年04月28日(木) |
人の生涯は草のよう、野の花のように咲く |
携帯用URL
| |
|
4月25日朝、JR福知山線で快速列車が脱線して起きた事故は106人の死者を出すという近年例を見ない大惨事となった。犠牲者のほとんどは無惨に押しつぶされた車体に挟まれ、何が起きたかもわからないままに一瞬にその生命を奪われたのである。亡くなった人たちにはみなそれぞれの人生があり、家族との貴重な時間が存在した。これからもずっと続くと思っていた自分の人生が、まさかそんなところでいきなり断ち切られるなんて誰が想像できただろうか。
クルマを運転していたり自転車に乗っていたりして事故に遭うのは自己責任の部分が大きい。しかし、安全なはずの公共交通機関に乗っていて事故で死ぬなんてことを誰が考えるだろうか。それは道を歩いていて頭上から隕石に直撃されて死ぬことと同じくらいの「想定外の事態」なのだ。
人の生涯は草のよう、野の花のように咲く。風がその上に吹けばすべて消え失せ、生えていた場所を知る人は誰もない・・・と聖書は語る。本当に何もかもなくなってしまうのだろうか。たとえ命はここで途絶えても、その想いはいつまでもこの世に存在し続け、誰かの心の中に永遠に生きると思いたい。少なくとも誰かの記憶の中にある限りいつまでも想いは消えないのだと。
亡くなった方々が最後に見たこの世の風景はいったい何だったのだろうか。最後に交わしたのはどんな言葉だったのだろう。最後に聴いていた音楽は何だろう。最後に打ったメールはどんなフレーズだったのだろう。その一瞬後に列車が線路を外れ、時速100キロ近い速度でマンションに激突し、車体がくの字に折れ曲がって押しつぶされることなど誰に想像できただろう。
たった一人の死でさえも、その人を知る多くの人は涙を流す。この事故で一瞬に失われた多くの命は、その周りのどれほど多くの人の心に悲しみと痛みを与えたことか。両親を一度に失ってまだ大学生の身でありながら喪主として葬儀を執り行う息子がいる。この春から大学に通い始めた娘をいきなり奪われた親たちがいる。母親の死を理解できずに安置された棺の前でただ泣きじゃくる幼子がいる。その数多くの悲劇を前にして、私はただやりきれない思いに包まれる。なぜこんなに多くの人がこんな理不尽な形で人生をいきなり断ち切られてしまったのか。戦争でもなく地震のような災害でもなく、日常の世界の中の出来事で。
私は自分が生きていることの意味を考える。どこで断ち切られても「悔いなく生きた」といえるだろうかと自問自答する。やり残したことの多さを思う。まだ十分に生ききっていないことを実感する。よりよく生きなきゃと思う。生者がよりよく生きることだけが死者への供養である。自分のような取るに足りない暴言野郎にも、そんな存在の意味があるのならきちっとその意味を受け止めてよりよく生きたいと思う。この世に生を受けたことを感謝しながら・・・
前の日記 後の日記