2004年11月18日(木) |
「さよなら」の意味 |
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それがお互いにとって本当に最後の瞬間になるのであっても、誰もそのことには気づかない。横田めぐみさんの両親はまさか、「行ってきます」と家を出た娘が帰宅途中に拉致されて二度と帰ってこないなんて、その日の朝には思いもよらなかっただろう。北朝鮮から送ってきた遺骨はDNA鑑定の結果ニセモノであると判定されたが、横田夫妻はそんなものがホンモノだなんて最初から信じていなかった。今でもきっと再会できると信じているだろうし、オレも横田めぐみさんの無事を祈っている。
イラクで人質とされてそのまま殺された香田証生さんが旅立つときも、ご両親はただの旅行としか思わなかっただろう。考えれば人生の多くの別離の中で、別れるときにちゃんと「これで最後」なんて意識できる別れなどほとんどない。いつも別れは突然で唐突なものである。
作家の中野武彦さんが9月5日に亡くなった。淡路町の大店の息子と和泉の貧農の3男という全く違った境遇ながら、自分のオヤジとほぼ同世代だったということでオレは妙に親しみを感じていて、メールをやりとりした後2年前の夏に新宿でお逢いできることとなった。そばを食べ、それから新宿高野でパフェを食べ、サイン入りの著書をいただいた。「こちらにまたおいでの際は連絡をください」と柔和な表情でおっしゃったのが最後のオレの記憶となった。その著書「樟樹」を読んだ感想を直接著者に語る機会は永遠に失われた。
養老孟司さんの父親は昭和17年に34歳の若さで結核で亡くなった。臨終の時に4歳だった養老さんはまわりの大人たちから「お父さんに、さよならを言いなさい」と言われたものの、とうとう「さよなら」を言えなかったという。その後養老さんは大学に至るまで、人と普通に挨拶することができなかった。挨拶の時に限って口が動かずに周囲から無礼なヤツだと思われていた。なぜ挨拶ができないのか、その理由が自分でもわからなかったという。30歳を過ぎたある日、地下鉄に乗っていて彼は突然その理由に思い当たる。父の臨終の時にさよならを言えなかったのは、それを言ってしまうとお父さんと本当にお別れになってしまうようで怖かったからだと。4歳の時に死んだはずのお父さんは、実は心の中でずっと生きていた。そのことがわかった瞬間、養老さんは涙が止まらなくなったという。
オレはこうして毎日日記を更新しているが、ある日突然自動車事故や地震や災害で思いがけず死ぬかも知れない。歩いていて頭上から隕石が降ってくることだって絶対にないとはいえないのだ。もちろんそんなこと予測のしようがない。「これが最後の日記です」なんて告げることもなく、ある日突然更新されなくなって、そしていつのまにかカウンターが回らなくなって、そのまま忘れ去られるだけだ。人が死ぬとはそういうことである。
イルカの「我が心の友へ」という曲には
どこか知らない街で会えるそんな気がして いつでも汽車の窓から外を見てます
という哀切なフレーズがある。古いカセットテープでこの曲を聴くと、遠い昔のいろんなことを思い出して涙がこみあげてくる。人生には必ず出会いの数だけの別れがある。その多くは、それが別れであることすら意識されずにそのまま記憶の彼方に埋もれてしまう。漢詩の中の「人生足別離」(人生別離に足る)というフレーズを、井伏鱒二は「サヨナラだけが人生だ」と訳した。どんなに呻吟しても、それ以上の名訳をオレは思いつくことができない。
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