2004年10月05日(火) |
イチローよりもすごかった男 |
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長嶋茂雄と同じ昭和11年に生まれ、長嶋茂雄よりも1年長くプレーした背番号3の選手がいた。榎本喜八、毎日オリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)で安打製造器と言われた伝説のスラッガーである。川上哲治はこのように語ったという。「セ・パ両リーグの選手を見渡して、今打撃の神様といえるのは榎本しかいない。長嶋といえども彼には及ばない。」
高校を出たばかりの若者は、オープン戦での活躍からいきなり5番打者に抜擢され、打率.298、16本塁打、67打点、146安打、97四死球という成績を残して文句なしの新人王に選ばれる。6年目の1960年に打率.344、170安打で首位打者と最多安打のタイトルを獲得し、1961年も打率.331、180安打。翌1962年も打率.331、160安打で3年連続の最多安打を記録した。1966年には打率.351で2度目の首位打者になるとともに、167安打で4度目の最多安打を達成した。1968年、イチローに破られるまでの史上最年少記録だった31歳7ヶ月での2000本安打を東京球場で達成したとき、「ニセンボンアンダオメデトウ」という祝電が川上哲治から届いたという。しかし、その時がおそらく彼にとっての頂点だったのだろう。
1970年、オリオンズの監督は中日からやってきた濃人渉になった。その年、中日から放出された江藤慎一もオリオンズに来た。榎本と江藤は同じ一塁手だったこともあり、榎本は経験のない外野を守らされたりという不規則な起用のためにプロ入りして初めて規定打席に不足した。それでも打率.284、15本塁打という立派な成績ではあったが。この1970年、オリオンズは10年ぶりのリーグ優勝を果たし、巨人と対戦する。しかし、榎本にはほとんど出場の機会が与えられず、二死満塁の好機には江藤が代打に起用されたちまち三振した。打席さえ与えられれば安打を製造できた男が、その機会すら奪われてしまったのである。
1972年、榎本はオリオンズを放出され西鉄ライオンズに移籍した。その年の成績は163打数38安打本塁打1、打率.233 引退試合も行われないままに彼はひっそりと球界を去った。通算安打は2314本。ちなみに長嶋は2471本である。かつてオリオンズのホームグラウンドだった東京球場が取り壊されることになった時、榎本は毎日工事現場にやってきてはその一部始終を見守っていたという。彼にとっての思い出の場所は永遠に失われてしまったのである。
榎本は現役時代、数々の奇行でも有名だった。1966年のオールスター戦に選ばれた彼は、試合前の練習に1人だけ参加せず、ベンチで座禅を組んだまま全く動かなかったという。4打数4安打でもそれがポテンヒットやボテボテの当たりなら「今日は4の0か」とつぶやき、自分で満足できるバッティングのできた時は当たりが野手の真正面をついたりして4の0になっても「今日は4の4」と機嫌が良かったという。
名球会には一度も顔を出さず、どこかのチームのコーチをすることもなく、イチロー以上の素質を持っていたかも知れなかった天才打者は静かに野球の世界から去った。イチローが年間最多安打の記録を破ったその瞬間、榎本喜八はいったいどんな思いでその若者を見つめていたのだろうか。
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